下関市豊北町の神田上‥土井ヶ浜遺跡とコバルトブルーの海 | 一歩から散歩

一歩から散歩

公共交通機関を利用して気が向くままに散歩しています。

        

       この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
 神田上(かんだかみ)は響灘に面し、ほぼ海岸線に沿って国道191号が走る。この域内は広域のため、土井ヶ浜弥生パークを中心に散歩する。(歩行約3.5km、🚻パーク内のみ)
        
 JR下関駅から山陰本線でJR二見駅下車。ブルーライン交通(9:27)に乗り換えて、土井ヶ浜バス停で下車する。
        
 下車するとバス進行方向に神功皇后社の大鳥居が見える。
        
 鳥居からの里道。
        
 右手に人骨の出土密度が高い部分に覆屋(ドーム)。
              
 弥生時代の人骨約300体や副葬品などが出土した「土井ヶ浜遺跡」の全容を紹介した施設である。正面にはシンボルのゴホウラ貝輪と、1993(平成5)年に出土遺物を収蔵する土井ヶ浜遺跡人類学ミュージアムがある。(国指定遺跡)
        
 弥生式土器が並ぶ。
        
 弥生人のレプリカ。
        
 人骨の埋葬密度がもっとも高い部分に半地下式ドームが設けられ、一般に公開されている。ここには約80体の人骨が発掘時の姿で復元されており、顔を西に向けているのが特徴である。(人骨はレプリカ)
        
 埋葬には無施設のもの、四隅に1個ずつ石を置く簡単なもの。石囲いのもの、組合せ箱式石棺の4種類がみられる。
        
 6体埋葬の石棺。
        
 遺骸の中には11本もの石鏃(せきぞく)や牙鏃(がぞく)が腰などに射込まれた男性人骨がある。酸性土壌の日本では、土に触れ続けると人骨は消滅してしまうが、ここ土井ヶ浜は、海岸から吹き飛ばされてきた貝粉が非常に多く含まれており、貝に含まれているカルシウムが長い年月の間に溶解し、骨に浸透したことによって、骨を良好な状態で保存してきた。
        
 浜出祭(はまいでさい)は、7年毎に行われる田耕(たすき)神社と神宮皇后社双方の神事で、花神子が滝部堀切で合流して土井ヶ浜で浜出神事が行われる。

 蒙古襲来と結び付けられた伝説があるが、民間では、厳島神社と海側の土井ケ浜にある蛭子社との男女2神の再会の神事であるといわれている。それぞれ生産を異にする山地と浜とが、定められた年に、合同で祭礼行事をすることによって、村内の繁栄と秩序を願ったものではないかと考えられている。(浜出祭の祭場)
        
 元寇の碇石。(ディサービス向日葵の向い側)
        
 海の家がある地点から見る土井ヶ浜。
        
 海の中にある白い島が壁島で、「鵜」が11月下旬から翌年の3月頃まで越冬し、鵜の糞で白く見えるという。その奥に角島が横たわり、角島大橋が曲線を描く。
        
 海岸部に咲くハマヒルガオは、茎や枝が地面を這うように伸びる匍匐性(ほふくせい)植物。
        

 神功皇后社への道を辿ると庚申塚と御旅所の鳥居。
        
 土井ヶ浜の南外れの台地上に鎮座する神功皇后社。住吉神社を一の宮というのに対し、通称二の宮と呼ばれ、神功皇后を祀る。

        
 由緒によると、鎌倉期の弘安年中(1278-1288)に蒙古襲来のとき、この地に派遣された武将が撃退することが容易でないことを憂いる。神功皇后新羅征討の故事から幣帛(へいはく)を奉って奉斎すしたところ無事撃退できたという。このことに感謝して、1288(正応元)年社殿を建立したという。
 浜出祭と呼ばれる神事は土井ヶ浜での行事であるが、浜にあった蛭子社が明治期に当神社に合祀されてしまったため、神輿及び行列はここから出発している。
        
 神社脇の道から見る豊北の海。
                   
 集落としてのまとまりを見せないが、広い屋敷地に蔵・長屋などを有する民家が多い。 
        
 峠手前の人家脇を抜けると海の家駐車場に出る。
        
 駐車場の最奥部の左手にある鎌倉の森は、弘安の役(1281)で蒙古軍と戦い討死した鎌倉方の武士を祀った祠であるという。一方の蒙古兵の骨を埋めた「鬼の松」とされる場所は見つけることができず。
        
 コロナ禍で影響を受けた海水浴場だが今年はどうだろうか。コバルトブルーの海と白い砂浜が続く風景を堪能して、往路を引き返し、バス停から矢玉に移動する。