本を拝読しました。

 

ブログにあるタイトルは、まんま書籍のタイトル。

 

小幡和輝さんの書かれた

『学校は行かなくてもいい』



です。


かなりセンセーショナルな部類に入るタイトルですよね。"学校行かなくていい"って言い切ってんだから。

でも、これ読んだ方はみんなわかると思いますが、
"ただの学校全否定から来るもの"
だったり、ましてや
"売れるためだけに奇をてらったタイトル"
ってわけじゃないんですよ。

本文中にも何度か登場するんですが、

選択肢を差し伸べてるだけ

の、優しい言葉をタイトルにしたものなんです(小幡さん、間違ってたらごめんなさい!)



この本を読んだのは、
小幡さんがダンサーになって、僕の本を買ってくれたから、僕もダンサー小幡さんの本を即座に注文した
という経緯から(ウソではないけど、こう書くとなんのこっちゃよー分からんすね。説明めんどくせーから小幡さんに聞いてください)。

Amazonポチらせてもらい、すぐに届いた本でしたが、すこーし時間が経ち、今になって一気読みさせていただきました。


ううん。

「一気読みしてしまった」

が正解です。


本当の本当にいい本だった。


"意義のある"本だった。


世の中の本は、
「意義がある文章なんだから、まとめて本にしようよ」
ってことで、"本"になってるんでしょうが、その中でも『学校は行かなくてもいい』は、


今、在るべき本


でした。




サブタイトルからもわかる通り、この本に書かれているのは、

「不登校のやり方」


「不登校だった人たちの経験談」。

あと、

「"学校"という場所の捉え方」。


ご自身が不登校を経験され、なんやかんやあって高校生のときに起業しちゃった小幡さん(このへんがぶっ飛んでてかなり愉快なんですが)。

その他にも10代の頃に不登校を経験された方々の経験談を載っけて、いろんなパターンの

"不登校になったキッカケ"
"その時の心情"
"学校や家族との距離"
"今現在の自分について"

なんかがまとめられた1冊となっています。



率直な感想は上にも書いた通り、本当におもしろくて、本当に今在るべき本、というものなんですが、
「でも一体、何が具体的に刺さったんだ?」
って考えたんです。

で、多分、僕が個人的にこの本に敏感になれた答えってのが、


補完してくれるから


なんです。



学生時代、僕は不登校じゃありませんでした。

この本に登場される方々の気持ちはわかりません。

ただ、周りに不登校の子や、不登校気味の子はいました。

また、僕は中高バレー部だったんですが、部活の時間になると、どうにかして逃げ出すやつもいました。

本文に書かれてますが、"学校"って、

「行って当然の場所」

っていう、位置づけなんですよね。
というか、

「そういう概念で形作られた場所」

なわけです。

日本では、義務教育として中学まで通うのは当たり前(これ実は、本書で目から鱗バリに覆されてる部分なんですが)。
高校も、まぁ大体の人間が通る道。

学生時代の僕も、ご多分に洩れずその感覚ですから、不登校になった子や、部活から逃げる友達を、

「あいつドロップアウトしやがった。感覚がおかしいんだろうな。情けない」

みたいな目で見ていた節があります。

バカですけどね。今考えると。


ただ、狭い世界しか知らないバチバチ思春期には、集団行動から逸脱するやつを"異物"としてして捉える感覚がプログラミングされていて、これは僕だけじゃなく、周りの同級生もほぼこの考え。

おまけに、

"不登校の子に関わるようなことがあれば、自分も連座して白い目で見られるーー"

という意識があったので、積極的に関わろうとするやつは、ホントにごく僅かでした。

田舎を否定するわけじゃありませんが、小さなコミュニティってとこも、そんなバカげた行動に拍車をかけていた気がします。



この本は、当時分からなかった、正確には自分が歩み寄ろうとしなかった同級生(もしくは先輩、後輩)の気持ちを教えてくれるんです。


ホントね、様々な理由があります。

様々です。


具体的なイジメから、友達関係のギクシャク。

ホントに些細なキッカケ(もちろん当人にとっては一大事)や、教師や親への失望。

学校へ行く頻度も違えば、期間も違う。

当たり前ですけど、人によって、いろっ……いろなパターンで学校を避けるようになってるわけです。


読んでいくうちに、

「あの子もこんな感情だったのかな…」

って思えました。

ピタリと当てはまる事例はないかもだけど、本書で語られてる思いや感情に近いことを抱いていたんじゃないかと思えてですね。。

なんちゅう住みづらい雰囲気を作り出してたんだと。

反省、とも違うな。

ただ、過ぎた時間に恥ずかしさだけを感じて。



で、読みながらそんなようなことを思ってたら、ふと思い出したんです。



「自分にも学校行くの嫌な時期あったじゃんか……」



って。


学校というか、部活になんですが。


高校1年生のとき、あまりにもバレーの練習がキツくて、行くのが嫌で嫌でしょうがなかった。

体力がないもんだから、すぐヘトヘトになって、先輩からはドヤされるし、同級生からも白い目で見られる。

夏休みは合宿。

冬休みなんかは正月から合宿。

過酷な状況で缶詰めにされて、何日もそれが続くと思うと、長期の休みが来るのが憂鬱で仕方なかった。



ああ、自分にも拒否ってるものがあったわ……



と。



自分に降りかかったそれと、不登校。


おんなじような気持ちになってたはずなのに、なんで一緒だと考えられなかったんだろ。


多分、

「学校を嫌がるのと、部活を嫌がるのじゃ全く違う」

っていう、わけわかんねープライドがどこかにあったんだと思います。



一緒なのにね。




でね、この本が本当に素晴らしいのが、ここから。

というか、1番伝えたいのがこの部分(あってますよね、小幡さん?)。


"不登校を肯定して、未来に活かす"

ってとこなんです。


僕は歴史が好きなんで、その観点から言うと(てか本書の中でも書かれてますがね)、

教育を受ける場所があるってのは、とっても大切

なわけです。


国の発展=教育


って言っても、まったく過言じゃない。

幸せな国を作ろうと思った、時代、時代の指導者は、必ず教育に力を入れるんですね(戦いが頻繁に行われた不幸な時代も、強い国を作るって意味で教育に力を入れてます)。

そういう意味で、日本の"学校"は確かにすごいシステムです。

一定レベルの教育を誰もが受けれるなんて、身分制度があった時代からすりゃ考えられないことですから。



でも、そのコミュニティに依存しろってなると、話は変わりますよね。



みんなこの授業受けてんだから。

みんなこの教室で席についてんだから。

みんな同級生と仲良くやってんだから。

みんながやってるんだから。



教師が暗に示すのは、こんなような集団行動。
で、肝心の授業は、



今から黒板に書くことをノートに書き写しなさい。

寝るなよー。

ここテストに出るからな。

テストで点が取れるからって寝ていいってことでもないからなー。



これ"教育"ってもんが形骸化されてませんかね?



ほんで、こんな魅力激薄のコミュニティに、

「絶対行かなきゃダメだぞ!」

は、あまりにもヘンテコ過ぎる感じがします。

決して学校に行くことが正解なんて言い切れない。


そこで、最初にも言った通り、

選択肢の話

になるわけです。


学校へ行くことだけが、正しいとは限らない


「僕は、ここでこういう道を選んだ。〇〇というコミュニティに入ってみた。あるとき、こんな出会いがあった。でもこれは僕の体験談だから同じようにしろってことじゃないよ。じゃ他の人の体験も見てみよう……」


というような感じで、小幡さんは優しく経験を綴ってくれてます。


学校へ行かない=逃げる


って捉えなくていいんだよ、と。



これ、ホントそうですね。



いろんなコミュニティが存在するこの時代、何も学校にこだわる必要は全くなくて、もっと言えば、僕らが学生の頃から多様性のあるグループがいっぱいあってよかったんですよ。


もちろん、自分もそうですが、学校にはいい思い出も山ほどあります。


だから、選べればいいんですよね。


そして、学校に行かないという選択肢を取るなら今度はどんなことをやるべきか。


『学校は行かなくてもいい』は、「道はこっちにも広がってるよ」ということを、優しく示してくれる本です。


なかなかヘビーな体験が書かれているけど、読んでて決して暗い気持ちにならないのは、小幡さんが世の中の固定観念を柔らかく壊してくれるから。


「この文章で、子供たちも、親御さんも、周りの人たちも、絶対救ってやるぞ」
という、包みこむようなパワーが漲ってる、本当にステキな本です。





房野も本出してるよー。
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