ウチナンチュ、ヤマトンチュ、アイヌ人・・・日本人の血とは何? | 夢老い人の呟き

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先月ウクライナ出身の女性がミス日本に選ばれましたが、 彼女が日本人の親の子ではない、日本人の血が入っていないとネットで叩かれ、さらに個人的な事も晒されミス日本を辞退しました。
 
しかし日本人とは、日本人の血とは何でしょうか?
また精神面でいえば、日本の伝統、文化とは何でしょうか?
一般的な概念に囚われず、掘り下げて考えてみます。

 

もう35年も前になりますが、私は5年ちょっと沖縄に駐在しました。

その頃のことを思い出しながら書いてみますが、歴史を振り返ると主権を失っていた日本は、1952年4月「サンフランシスコ平和条約」が発効され主権を回復しました。

しかし沖縄は引き続きアメリカの施政権下に置かれ、アメリカ軍部が沖縄に設置し琉球列島米国民政府(USCAR下部組織として琉球政府が設立されました。

琉球政府は司法、立法、行政機能を備えた政府でしたが、琉球政府の自治権は制限され、1972年5月15日の本土復帰までアメリカ統治が続きました。
 
 

さて表題の「ウチナンチュ」ですが、これは沖縄の人が自分たちをさしていう言葉です。

そして「ヤマトンチュ」」は沖縄人以外の日本人であり、私のように沖縄に住んでいた人はシマナイチャーと呼ばれました。

 

ではウチナンチュヤマトンチュアイヌ人と日本人の血がどのように関係があるのか?
じつは沖縄の人とアイヌの人は遺伝子が似ており、遺伝子的にはこの人たちこそが日本人のルーツに最も近いといえそうです。
 
 
これから書くことは古事記を史実と思っている人や、教育勅語を貴ぶ人には受け入れられない事かも知れませんので、そういう方はお読みにならない方が宜しいかもしれません。
 
 
 
縄文人こそ日本人のルーツ?
 
現在の人類の共通祖先ホモ・サピエンスが生まれたのは20万年前アフリカ
旧約聖書の出エジプトならぬホモ・サピエンスの出アフリカは5~10万年前
 
東アジアへの進出は4~5万年前だそうで、日本列島にも、およそ4万年前からヒトが住んでいたことが石器の記録からわかっているとのこと。
そして今から3万数千年前、氷河期で海面が下がって陸地が今より広がっていた時期、日本列島には現在の➀サハリン➁朝鮮半島③台湾方面の3つのルートで人類が移り住み、後に“縄文人”になっていったと考えられています。

 

後期旧石器時代:最初にヒトが日本列島に住んでから16,000年前まで

縄文時代:16,000~3,000年

弥生時代:3,000~1,700年

 

 

縄文人は、アメリカ先住民を含む東ユーラシア集団の中で最も古い時代に分岐したことが分かっています。その一方で、縄文人はウルチ、韓国人、台湾先住民、オーストロネシア系フィリピン人と遺伝的に近かったのです。

 

縄文人の顔の特徴はいわゆる濃い顔ですが、こうやって見ると沖縄の人やアイヌの人に濃い顔の人が多い事、沖縄の人とフィリピンの人が似ているような気がするのも頷けそうな気がします。

出典:遺伝子から続々解明される縄文人の起源~高精度縄文人ゲノム~

 

 

以上から縄文人が日本人の起源と言って良いかと思いますが、縄文人のDNAが最も多く受け継がれているのがアイヌと沖縄の人たちで、本土日本人が最も少ないです。(次項の図には沖縄人とアイヌ人は入っていないのでご注意を)

 

そして縄文時代末期から大陸からの渡来人が入っており、やがて農耕が始まり弥生時代となっていったようです。

 

 

縄文人と渡来人の混血の日本人

 

次の図は地域ごとに縄文人に近いか弥生人に近いかを表したものです。

大陸からの渡来人が多かった地方ほど、縄文人に遠く弥生人に近いようです。

※なおこの図には沖縄の人とアイヌの人は含まれておりませんが、沖縄と北海道は渡来人が入ってこなかったので、沖縄の人とアイヌの人は最も縄文人のDNAが濃いのです。

出典:渡来人、四国に多かった? ゲノムが明かす日本人ルーツ

 

 

渡来人がもたらした文化

 

縄文時代末期、中国や朝鮮の戦争から逃れ、大陸からやってきた渡来人は日本に水田稲作や鉄器など中国や朝鮮の進んだ文化を伝え、縄文人との混血によって弥生人に、そして現在の日本人にとなりました。

出典:縄文人と弥生人を比較!縄文時代晩期の日本にやってきた弥生人を知る

 

渡来人は縄文時代末期から日本に渡来していますが、農耕の無かった日本に農耕が伝えられ、そして弥生時代となりました。

 

また渡来人は、鉄製の武器や農具、工具、須恵器と呼ばれる土器、金属細工、漢字、漢字や儒学など学問、仏教、暦 、建築技術なども伝えています。

 

さらに奈良の大仏や東大寺を始め、日本の歴史的建造物の多くは中国や韓国からの人たちやその子孫の技術によって建てられています。

 

また奈良が都として栄えたのも、渡来人の技術があったればこそでしょう。

次は奈良の県民だよりです。

 東大寺は、奈良時代に建てられた大寺院で、大仏殿(金堂)を中心に、南大門、法華堂などの多くの建物が並び立っています。本尊の盧遮那仏坐像(るしゃなぶつざぞう)(大仏)は、推定重量380t、高さ15mという世界最大の金銅仏で、大仏を安置する大仏殿も高さ48mの世界最大級の木造建築物です。この大仏鋳造の総指揮を執ったのは、百済(くだら)からの渡来人の孫・国中連公麻呂(くになかのむらじきみまろ)で、大仏殿の建立には新羅(しらぎ)出身の大工が総監督を務めるなど、大仏殿の建立や大仏の造立には多くの中国や韓国からの渡来人やその子孫が貢献しています。

 

 また鎌倉時代に行われた南大門などの再建では南宋から多くの技術が持ち込まれました。南大門は、僧・重源(ちょうげん)が南宋に渡って学んだ技術と、創建時の位置や規模を踏襲して再建されました。南大門に安置されている運慶、快慶が制作した仏様の守護神・金剛力士像が有名ですが、その北側に大きな石造の獅子が安置されているのはあまり知られていません。獅子像は東西一対で、座高は東方像1.8m、西方像1.6m、高さ1.4mの台座に置かれています。寺伝によると、この石造獅子は、南宋から訪れた4人の石匠によって1196年に制作されました。しかも最近の研究で、材料となった石も中国の寧波から運ばれてきたものであることがわかっています。

 

 当時の日本と南宋の間には政府間の使節の交換はありませんでしたが、僧侶や商人といった民間人の交流が盛んで、そのゆかりが今も奈良に残っています。

 

こうやって見ると日本人も日本の伝統も渡来人を排他していたら生まれなかったと思います。

そしてこれからも日本の発展のためには海外からの人材と技術の導入が必要だと思います。