「ニイタカヤマノボレヒトフタマルハチ」(ニイタカヤマノボレ1208)」とフィリピン | 夢老い人の呟き

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どうも昨年8月に二度目のコロナらしき症状となって以来、1カ月以上頭痛や無気力が続き、頭がボンヤリとし、時として発熱、しつこい咳、くしゃみ、鼻水、関節痛などが続きましたが、以来後遺症のブレインフォグなのかそれとも加齢でボケが進行したのか、その後も頭は惚けて無気力と物忘れに悩まされています。

そうかと思えば今年5月には突然右足が動かなくなり、やっと回復してきたと思ったら今は二週間以上前からしつこい風邪が治らず、さすがに気分は最悪で落ち込んでいます。

 

 

早く回復して気分一新頑張りたいところですが、ふと思い出したのが今日は12月8日。

12月8日といえば「ニイタカヤマノボレヒトフタマルハチ (ニイタカヤマノボレ1208)」の日。

 

戦後世代には「ニイタカヤマノボレ」を知らない人などいなかったが、あれからもう82年、今や「ニイタカヤマノボレ」も戦争があった事も知らない人が多いのではなかろうか?

 

 

 

 「ニイタカヤマノボレヒトフタマルハチ」1941年12月2日、日本海軍連合艦隊司令長官の山本五十六が、北太平洋上を航行中の南雲機動部隊に送信した暗号電です。

 

 この暗号電は日本時間12月8日(アメリカ時間12月7日)にハワイ・オアフ島のアメリカ軍真珠湾基地を攻撃せよとの命令で、ハワイ北方海上に接近していた、南雲機動部隊はただちに攻撃準備を開始したのです。

 

 

 

 1931年の満州事変、1932年の傀儡政権の満州国建国、1937年の盧溝橋事件、日中戦争と続いた日本に対し、アメリカは1939年7月、中国での日本の軍事行動が長引いていることを理由に対日経済制裁を発動し、鉄鋼や石油など多くの物資を米国からの輸入に依存していた日本経済は大打撃を受けました。そして1940年になると米国は航空機用ガソリン、くず鉄の禁輸も決め、1941年11月26日には中国からの完全撤退などを求めた、事実上の最後通告「ハル・ノート」を突き付けました

 

 ハル・ノート提示と同じ1941年11月26日。
 日本海軍機動部隊( 南雲忠一中将率いる南雲機動部隊)は、択捉島(えとろふ島)の単冠湾(ひとかっぷ湾)を出発しました。
 

 

南雲機動部隊出撃

 

択捉島から出発した理由は、過去10年間11月から12月にかけては北緯40度以北を航行した船舶が皆無であるためで、奇襲の隠密行動のため北方航路を採用したのです。

図出典:真珠湾攻撃


 南雲忠一中将を指揮官とする機動部隊は、大型空母6隻(「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「瑞鶴」「翔鶴」、戦艦「比叡」「霧島」)、巡洋艦3隻(「利根」「筑摩」「阿武隈」)などを主力とし、航空部隊は戦闘機120機、攻撃機144機、爆撃機135機合計399機という大戦力だった。

 

 

ニイタカヤマノボレヒトフタマルハチ (ニイタカヤマノボレ1208)

 

 南雲機動部隊は11月26日、択捉島から密かにハワイ北方海域へ向かい、そして12月2日、連合艦隊司令部よりニイタカヤマノボレヒトフタマルハチ (ニイタカヤマノボレ1208)が送信されました。 

  • 米国は日本の外交電文を解読し、開戦の兆候を感じてはいたものの、ハワイよりフィリピンなど南方方面への攻撃が先だと考えており、ハワイ現地部隊は警戒することなく、のんびりとした日曜日(現地時間では12月7日)の朝を迎えようとしていた。

 ハワイ近海に接近した日本海軍機動部隊は、日本時間12月8日(アメリカ時間12月7日)に攻撃開始

  • 午前1時30分、第一波空中攻撃隊として艦戦43機、艦爆51機、艦攻89機、計183機が発進。
  • 午前2時45分、第二波空中攻撃隊として艦戦36機、艦爆80機、艦攻54機、計170機が発進。


図出典:特集 真珠湾攻撃

 

 

  米側の主な損害は、戦艦5隻が沈没、戦艦4隻、巡洋艦、駆逐艦各3隻が損傷、飛行場への攻撃で航空機188機が破壊され、戦死・行方不明者は2300人を超えた

 

 

  日本時間12月8日(アメリカ時間12月7日)南雲機動部隊は真珠湾攻撃を成功させ、攻撃隊長・淵田美津雄中佐の搭乗する九七式艦上攻撃機から第一航空艦隊司令部(旗艦:空母「赤城」)に宛てて「奇襲成功」の略電「トラトラトラ」が発信された。

 

 

 

 
 

■太平洋戦争で最も大きな被害を受けたフィリピン

 

一方この戦争で最も大きな被害を被ったのがフィリピンである。

当時アメリカの施政下にあったフィリピンは1946年7月4日と決定していた独立まで、4年8ヵ月を残すのみであった。

しかし1942年12月22日の日本軍上陸によって戦争に巻き込まれ、当時の人口1600万人約7%111万人が戦争の犠牲となりました。

 

 

■フィリピン独立準備政府(フィリピン・コモンウェルス)

 

1934年民主党フランクリン・ルーズヴェルト”政権下で、10年後にフィリピンの独立を認める“「フィリピン独立法(タイディングス=マクダフィー法)」”が成立し、1944年7月4日独立が決定していました。

 

そして1935年5月に憲法が批准され、1935年9月に行われた選挙によってマヌエル・ケソンを大統領とした米自治領政府(独立準備政府)“「フィリピン・コモンウェルス」”が成立しました。

 

 

■第二次大戦

 

しかし独立まで残り4年8ヵ月となった1941年12月、第二次大戦勃発

フィリピンは米比連合軍として日本軍と戦い、破れ、日本の軍制下となりました。

 

日本軍は1941年12月7日の真珠湾攻撃直後の、1941年12月22日にルソン島に上陸し、翌1942年1月2日には首都マニラを占領しました。

1942年4月から5月にかけてバターン半島コレヒドール島に立て篭もっていたアメリカ軍とフィリピン軍が降伏するが、バターン半島とコレヒドール島の戦いに敗れた米比連合軍は、大部分がフィリピン人の非戦闘員を含む推定8万人が、現在はCapas National ShrineとなっているCamp O'Donnellに移動させられました。

 

これが有名な「バターン死の行進」で、戦時中の事なので人数は諸説ありますが、この移動でCamp O'Donnellに着くまでに26,000人の命が失われ、さらにCamp O'Donnell でも30000~31000人が亡くなりました。

フィリピン兵は10,000人単位、アメリカ兵は1000人単位の命が失われたようです。

 

この戦争では人口1600万人約7%111万人が犠牲となりましたが、こんな歴史がありながら日本人に友好的に接してくれ、優しくしてくれるこの国には本当に感謝です。
いろいろといい加減なところもありますが、その代わりこちらに対しても目くじら立てず寛容であり、老いたヘタレには住みやすい処です。