米軍との地位協定を破棄したフィリピン。
現在経済特区となっているクラーク。
しかしクラークはかつてはアメリカ国外では最大の米軍基地でした。
開設は1903年。
1942年に日本軍が占領するまではアメリカ軍の重要な拠点でした。
1945年に再びアメリカ軍に取り戻され、1947年に1991年9月までの基地協定が結ばれ、ベトナム戦争では米空軍の重要な出撃拠点のひとつとなりました。
しかし1991年にピナツボ山噴火のためアメリカ軍は非難し、米軍施設も被害を受けました。
東西冷戦も終結していたため、基地の使用期限延長はされず、フィリピンに返還されました。
というわけで現在は経済特区となっていますが、フィリピンにこんなに綺麗な都市があったのか、と思うくらいアメリカンテイストな街です。
ギャンブル好きな方にはカジノもございます。
メトロマニラドリームプランでもクラークの開発、新都心化、ニノイアキノ空港の機能をクラーク空港に移すようなプランも含まれたいます。(うろ覚えの記憶ですので定かではありませんが)
こちらもお読みください。
“クラークの台頭”
ひょっとしてここで遊んだ先生方が日本にIRを欲しくなったかも?
というわけでクラークは昨夜は眠らない街となっていましたが、バレンタインのプレゼントという事で出かけてきました。
女性陣の目的はナイトマーケットで、それはまた別の機会に紹介させていただきますが、日が暮れるまでを過ごしたのがAir Force City Parkです。
ここはだだっ広い公園の中に戦闘機がポツンポツンと展示してあり、飛行機好きや子供を遊ばせる家族、二人の世界でまったりと時間を過ごしたいカップル、ジョギングやウォーキングをするには最適ですが、フィリピンを訪れる典型的なお父さん方には全くつまらない場所ではないかと思います。
ここのメインはこれでしょうか。
黒い銘板にはご覧のような事が書かれています。
こちらはFー5A。 Black Diamondなどと書かれています。
こちらT-28 訓練機のようです。
これは何だ?
分からん・・・・
なぜか翼がパッタンパッタン動きます。
UH-1H Huey、本当はIroquoisでHueyはニックネームなんですね。
こんな街にアメリカンスタイルの大きな平屋の家を建て、まったりと余生を送れたら最高に幸せだと思いますが、お金がありません。
ついでにクラークベテランズ墓地。
道路沿いにあり広さに驚きましたが、写真は無理なのでネットからおかりしました。
詳しい事はわかりませんが、ここには8600人の戦死したアメリカ軍兵士と、アメリカの旗の下で戦ったフィリピン人の遺体が眠っているそうです。
なおバターン死の行進では元々疲れ果て、飢え、病み、弱っていた、非戦闘員を含む推定8万人(大部分はフィリピン人)は途中多くが倒れ、Capasの Camp O'Donnell に着いたのは54000人でした。
日本軍がフィリピンをアメリカの植民地から解放したなどと馬鹿なことをいう爺様方もおりますが、第2次大戦前マニラは栄え東洋の真珠と呼ばれており、1934年3月24日にアメリカ議会では「フィリピン独立法」が制定され、10年後の1944年7月4日にフィリピンは独立する事が決まっておりました。
そして1935年11月、独立準備政府 (フィリピン・コモンウェルス) が発足し、マニュエル・」ケソンが大統領に就任していました。
日本軍がルソン島に上陸した1941年12月22日には、フィリピンは独立までに2年半を残すだけになっていました。
この国の人たちと関わるのなら、こういう歴史は知っておいた方が良いと思います。