夢老い人の呟き

夢老い人の呟き

願い望むは願望  夢は寝てみるもの 儚く叶わぬもの
  人に夢と書き儚  夢に人と書き夢人 
    夢と人の中に老いが入り夢老い人  儚く老いる独り言


暑い夏、少年時代の思い出といえば夏休みですが、歴史をみるとこの時期には日本に大きな影響を与えた出来事がありました。

 

今日は第一次大戦が始まった日です。

では一昨日は何の日かご存じでしょうか?

 

 

ポツダム宣言

 

じつは7月26日は”ポツダム宣言”が発表された日です。

 

第二次大戦末期の1945年7月17日から8月2日 、ベルリン郊外の ポツダム において、米(トルーマン大統領)英(チャーチル首相)ソ(共産党書記長)3カ国首脳により第二次大戦後の戦後処理 について話し合われたポツダム会談が行われました。

 

ポツダム宣言とは、その期間中の7月26日に米国のトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相と中華民国の蒋介石主席の共同声明として発表された降伏勧告文書です。

この”ポツダム宣言”を日本が受諾していれば広島、長崎が原爆が投下されることなかったし、北方領土がソ連に取られることもありませんでした。

 

 

しかし軍部は強硬に反発し、「本土決戦」、「一億玉砕」へと突き進もうとしました。

そして8月6日、広島にウラン型原爆のリトルボーイが投下、8月9日、長崎に本命(と私が思っている)のプルトニウム型原爆のファットマンが投下されました。

 

さらに同日未明、ソ連対日参戦

日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州国、朝鮮半島北部、南樺太への侵攻を開始、”ポツダム宣言に参加しました

 

 

ポツダム宣言受諾

 

ソ連対日参戦や長崎に原爆が投下されたのと同じ8月9日、閣議は紛糾しました。

 

ポツダム宣言受諾をめぐり本土決戦を主張する阿南惟幾(あなみこれちか)陸相や陸海軍統帥部と受諾を求める東郷茂徳外相、米内(よない)光政海相らは対立し、閣議は深夜まで紛糾。

そして同日深夜からの御前会議において、昭和天皇はポツダム宣言受諾の意志を表明

 

10日の閣議において宣言受諾を正式決定しました

その御前会議が行われたのがここです。

 

 

宮城事件(玉音盤事件)、厚木航空隊事件

 

しかし、この後も軍部は強硬に徹底抗戦の主張を続け、「本土決戦」「一億玉砕」の危機は続きます。

陸軍青年将校は時の首相を暗殺しようと襲い、また別動隊は天皇陛下が国民に終戦を告げる玉音盤を奪取しようと、日本最後のクーデターを起こします。

  • 8月14日の御前会議において終戦の詔勅(天皇の大権に基づいてポツダム宣言受諾に関する勅旨を国民に宣布した文書)が発せられました。
  • しかし陸軍は納得せず、14日夜から15日未明にかけて首相官邸を襲い鈴木貫太郎首相を暗殺しようとしました。
  • 別動隊は玉音盤(天皇陛下の終戦放送盤)奪取を企て、終戦の日の8月15日未明、宮城を襲い、日本最後のクーデター‟玉音盤事件(宮城事件)”を起こしました。
  • この時宮城を守る森たけし近衛師団長は反乱軍に加わるようにとの誘いを断り殺害されました。

 

ところが終戦の日を過ぎてもまだ戦争は終わりませんでした。

厚木海軍飛行場第三〇二海軍航空隊(302空)司令の小園安名大佐は日本の降伏を受け入れず、連合国軍と徹底抗戦しようとする”厚木航空隊事件”が起きました。

あまり知られていませんが、これこそが日本最後のクーデターと言って良いかもしれませんが、”厚木航空隊事件”は日本、特に北海道を危機に陥れました。

 

 

立ちはだかる厚木航空隊、平和の白い鳩の決死の飛行

 

8月15日に終戦したと言っても、それは日本の国内だけの話しで、降伏文書に調印されなければ戦争は終結しません。

 

千島列島と北海道を欲しいソ連日本が降伏文書に調印していないことを理由に、まだ戦争は終わっていないとして、千島列島とさらに北海道の半分(釧路と留萌を結ぶ線から北側)を手に入れようと、8月15日を過ぎても侵攻を続けました

 

日本にはソ連の侵攻を抑え続ける力は無く、早く降伏文書に調印するしかありません。

 

日本軍の強い抵抗が続くと見ていたマッカーサーは、日本にマニラに降伏使節団を送れと命じ、8月17日に降伏軍使を乗せた特別機「平和の白い鳩」を飛ばすよう命令

 

しかし、ここに立ちはだかる障害が厚木航空隊です。

 

降伏軍使を乗せた特別機が厚木航空隊に発見され、撃墜されれば戦争は終結せず、ソ連の侵攻は続きますし、最悪戦争再開の可能性もあります。

 

 

8月19日、マッカーサーの要求に2日遅れて「平和の白い鳩」は木更津基地を離陸しましたが、厚木航空隊が何としてでも降伏を阻止しようする中、いかにしてマニラに飛んだのか?

 

次の動画をご覧ください。

この動画は歴史的にも貴重ですし、ドキュメンタリーとしても大変興味深いものです。

前半だけでもぜひご覧になることを強くお勧めします。

 

 

こうして降伏使節団はマニラに到着でき、1945年9月2日、日本は戦艦ミズーリ甲板で降伏文書に調印することができました。

もしもこの「平和の白い鳩」が撃墜されていたら、私もこれをお読みの方々も生まれていなかったかもしれませんし、北海道はロシアになっていたかもしれません。

 

 

千島列島だけでなく北海道の北半分を狙ったスターリンの野望

 

8月14日、日本はポツダム宣言を受諾、これを受けて、アメリカは停戦命令を出しました。

しかし上述のように、ソ連は、その後も戦争はまだ終わっていないと攻撃の手を緩めず、南樺太、千島での侵攻を開始しました。

 

スターリンは、トルーマンに北海道の北半分にソビエト軍が入り、日本軍の降伏を受けることにしたい」と要求し、この時、釧路留萌を結ぶ線による、北海道の分割が提案されていた。

 

 

しかし、トルーマンは、「日本の本土はすべてアメリカの占領下に置く」と、このスターリンの要求を拒否しました。

 

日本が降伏文書に署名(1945年9月2日戦艦ミズーリ甲板で行われた)する前に占領を終え、既成事実にしたかったスターリンは終戦後の8月18日、 マッカーサー連合国軍最高司令官が停戦を求めるも要請を無視しました。

 

 

以下引用

前略

 スターリンは是が非でも、日本が降伏文書に署名する前に占領を終え、既成事実にしたかった。18日、マッカーサー連合国軍最高司令官(1880~1964)は日本の要請を受けてソ連軍に戦闘中止を求めるが、スターリンの命令を受けていたソ連軍は要請を無視した。樋口はスターリンの野望を見抜き、独断で自衛戦争を指示したのだろう。

 

 樋口の懸念はそれだけではなかった。大本営の戦闘停止命令が届いた17日、樋口は別の理由から自衛戦争を決意している。

 

 「私自身はソ連が更に進んで北海道本島を進攻することがないかと言う問題に当面した。私としては相当長期にこの問題に悩んでおり、一個の腹案を持った。すなわち、ソ連の行動如何によっては自衛戦闘が必要になろうということだ」(『遺稿集』)。

 

 この懸念は当たっていた。ロシアに残されている当時の公文書によると、スターリンは対日参戦直前に「サハリン(樺太)南部、クリル(千島)列島の解放だけでなく、北海道の北半分を占領せよ」と命じていた(1990年12月25日 読売新聞夕刊)。樋口が北海道防衛の自衛戦争を決意した前日の16日には、トルーマン米大統領(1884~1972)に書簡を送り、留萌―釧路以北の北海道を占領させろと要求した。トルーマンはこの要求を拒否するが、その後も南樺太にいた第八十七歩兵軍団に北海道上陸のための船舶の用意を指示している。

 

樋口とB29…終戦前から米軍と連携か

 

 樋口の孫で、祖父の記録を収集・研究している明治学院大学名誉教授の樋口隆一さんは、「南樺太と千島列島を短期間で占領し、前線基地として北海道になだれ込む計画だったのではないか。スターリンが欲しかったのは不凍港の釧路。記録では北半分とされているが、あわよくば北海道全島を占領しようとしたのだろう」とみている。

 

 隆一さんによると、ソ連が対日参戦する前の1945年7月には阿南惟幾あなみこれちか陸相(1887~1945)が突然札幌を訪れ、樋口と話し込んでいる。

17日には米軍のB29が千歳空港に飛来したが、樋口はまったく驚かず、飛来を知っていた様子だったという。米軍機飛来はソ連の北海道侵攻計画に対する警告という見方もある。樋口が大本営を通じて、米軍と連携していたのかも知れない。

以下省略

 

ソビエトは、その後、日本兵のシベリアへの移送を開始しました。

シベリアで強制労働させられた抑留者の数は、日本政府の調べでは約 57万5000人とされ,うち約 5万5000人が死亡 したとされます。