江戸時代の古地図を眺めていて…
当時の地形や道路(路地)の形跡が現代にも残っているのが判ると、
矢張りある種の感動を覚えますね…
地方だと、
そうした古地図自体の量が限られていますから、
東京のように、
あちこちで多種多様のものを観察出来る機会に恵まれるのは羨ましい限りです。
さて、
下の画像は明治20年代の古地図です。

(「白金の歴史」森崎次郎氏著 昭和58年刊 より)
地名は、現在とは違って「白金猿町」となっています。
明治時代になってから、
新政府によって武家屋敷の「茶畑化」政策が進められていて、
当時の武家の下屋敷が多かったこの地域では、
一帯が桑畑や茶畑に様変わりしているのです。
その中にポツリと残る「61」の地番…
江戸時代の古地図と比べてみると、
蓮池鍋島家の下屋敷から、
徳山毛利家の下屋敷にかけてが重なります。
(地形や路地がそのままの形跡になっているのがよく判ります。)
一説によれば、
「白金猿町61番地」は徳山毛利家の屋敷だ…
とも言われていますが、
考えてみて下さい。
当時の武家(大名家)の下屋敷は半強制的に収用されていた訳ですから、
長州藩の一支藩である徳山毛利氏の屋敷だけが安泰である筈がないのです。
ここは、両家とも収容され茶畑と化していると考えるべきでしょう。
で、江戸時代の古地図には、
その両家の敷地に挟まるようにしてこじんまりと…
「仁賀保権平」の表示が…
さぁ、
この「仁賀保家」とは…?
この続きは次回と云うことで…