「ここで愚痴を吐き出してね」と言われることがあります。
でも私は、愚痴には近づかないようにしています。
なぜそう決めたのか
──私なりの理由をここに書きました。
愚痴を言う自由、愚痴に関わらない自由
愚痴を言う自由は、もちろんあると思います。
吐き出すことで楽になる人もいるし、そういう場に救われる人もいるでしょう。
でも同時に、愚痴に関わらない自由もあるはずです。
わたしは後者を選んでいます。
ここで誤解してほしくないのは、わたしは「愚痴を言う自由」を否定しているわけではないということです。
だから、この記事に対して「愚痴を言う自由もあるじゃないか」と怒りを向けないでください。
私はただ、自分の心を守るために「関わらない自由」を選んでいるに過ぎないのです。
それにはわたしの特性が関係しています
わたしの特性として、愚痴を聞くと「じゃあ、どう解決するの?」と考えてしまいます。
でも大人になって気づいたのは、愚痴を言う人は解決を求めているわけではない、ということでした。
そのことに気づいたときのショックといったらありません。
いまだに、わたしにとって愚痴を聞く・聞かされることは、重荷であり、疲れる出来事なのです。
自分が愚痴を言わない理由
わたしは自分でも愚痴を言わないようにしています。
なぜなら、愚痴を感じた瞬間に「必ずなんとかしなければ」と解決にベクトルが向いてしまうからです。
つまり、わたしにとって「愚痴=必ず解決する」。
もし頻繁に愚痴を口にしていたら、そのたびに解決に走ってしまい、身も心も持ちません。
命にかかわるくらいの負担を感じるのです。
だからわたしは、愚痴を言わない。愚痴に近づかない。
それが自分を守る方法だからです。
愚痴は麻薬のようなもの
わたしにとっての愚痴は、麻薬のようなものです。
その場は気持ちが軽くなるかもしれません。
けれど繰り返すうちに習慣になり、依存のように人を巻き込み、重たい足かせがどんどん増えていくイメージです。
それを思うとき、わたしはタロットの「悪魔」のカードが浮かびます。
愚痴に関われば関わるほど、わたしの心の軽やかさや晴れやかさは奪われていくのです。
だからわたしは愚痴に関わらないと決めました。
軽やかに晴れやかに生きるために
愚痴を言う人を否定するつもりはありません。
でも、わたしは、自分の心を守り、穏やかに生きるために、愚痴には関わらない選択をしています。
未亡人のわたしにとって、これは日々を軽やかに 晴れやかに過ごすための大切な工夫のひとつです。













