ぼてさんのエホバの証人の人生回顧録 【第1回 私について】 | ぼてさん、時々ベンジャミン、たまにJW.org

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エホバの証人に対する記憶、気持ち、想い、葛藤、未来を書いています。

 この場での信仰とはエホバやイエスに対する忠誠心や忠実さという意味と理解して頂けると分かりやすい。
 
 
 集会や大会の雰囲気に飲まれることなく、あくまで自分のペースを守っていた。本音としては励まされることもなく、つまずかせられることもなく自分は自分で他人は他人だ。
もう少し言うと、必ずエホバの証人の世界を客観的に見ている第三者としての自分が私自身を常に見守っているという感じだろうか。第三者の自分が、不必要にこの宗教にのめり込むのを監視していた。
だからといって、信仰心が無いということもなく自分自身の判断で信じたは以上真理だと思っていたし、人から見ればどうだったかは分からないが、あくまでマイペースで真面目にやっていた。
ただ、エホバの証人の真面目と違っていわゆる特権には無頓着で、無理して奉仕の僕になっても、それは組織の中の本質的な仕事は単なる雑用係であり、周りの友人達が喜々として奉仕という名の雑用をしているのを見て「大変だなー」程度にしか思わなかった。
同じく開拓奉仕についても、ハルマゲドンが来て楽園が来るまでの世の中の誰からも期待されていない耐久レースの様にも見えて、これも見ていて痛々しかった。
ただ、私もエホバの証人の端くれなので、私のそういった奉仕の特権をどう思っているかと問う兄弟姉妹には「そうですね、もちろん捉えたいですよ」と答えてはいた。こういうところは本心を出さず、ずるいところもある。
 そもそも楽園には誰が行けるのだろうか?その特権のヒエラルキーの半分より上の人だろうか? 否、以下の出典により決して、奉仕の特権が条件ではないことは分かる。
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*** 塔研20 5月号 16ページ 18節 今の「北の王」は誰ですか ***
神の子羊であるイエスに信仰を持っていることを示さなければなりません。(ヨハ 1:29)エホバに献身し,バプテスマを受ける必要があります。(ペテ一 3:21)エホバについて人々に知らせることにより,神の王国を支持していることを示さなければなりません。
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そんな雰囲気で私はエホバの証人をやっていた。ハニー(妻のこと)によると会衆では真面目で親しみやすくていつも周りに人がいる”良い兄弟”だと評判だったらしい。逆に言うと、それだけだったのかもしれないが。
 
 寄付に関してもそれほど熱心にしなかった。社会人なった頃長老が聞きもしないのに「収入の十分の一寄付ができたら良いですね」と言ってきた。「いつの時代だよ、什一かよ。」とは答えずに「そうですね。」と答えておいた。しかし自分がそこに出席であれ参加している以上必要と思われる経費分に関してはしていた。足りていたか今でも分からないが。
ある時、地域監督が病気になったかとかで会衆でその入院手術費用を賄おうという寄付の決議があって健康保険に入っていなかったので200万円くらいの寄付の依頼があった。健康保険に入っていないのもどうかと思うが、私は「エホバに治してもらえ」と思い、寄付をしなかった。その後彼は無事手術が終わって元気になった。私がケチなのか未だに分からないが、そういう性分である。
 
 ここまで読まれると私は人でなしと思われるかもしれないが、与えられた会衆内の仕事に関しては真摯に受け止め真剣におこなった。必要に応じて早く王国会館に行くし、帰りが最後になっても責任を持ってやった。これはあたり前のことだけど自慢できる。ただ、世俗の仕事(いわゆる給料を貰う本業)と重なると問題が起こるのである。それは次回以降に書きたいと思う。
 
 私が活発なエホバの証人でいたのは約25年。自分で家庭聖書研究を求めてから、伝道者になってバプテスマを受けて順調に進歩していると思いきや、特権を捉えるという意味では進歩が止まったが、それが私は楽しかったのだ。たまに補助開拓をして、野外奉仕を頑張ってみる。それで十分であった。たぶん、聖書が好きだったんだ。聖書の神が好きだったんだ。エホバの組織も大事だったのだが、それ以下だった。それだけだ。
 
 あと、嫌いな言葉は人の主観で行動を抑制させる”つまずき”という言葉であった。仲間のクリスチャンをつまずかせないようにという助言や、誰々の行動につまずかされたという言葉には虫唾が走る思いだった。自分の信仰くらい自分で守れよ。信仰の無いものよ。もちろん、あらゆる思いやりは必要である。それは人の福祉を守るためであり、自分であれ他人であれ人に制限を加えるものであってはならない。と思っている。
なので、私は使徒 15:29にあるように「 …偶像に犠牲として捧げられた物,血,絞め殺された動物,性的不道徳を避けていることです…」偶像崇拝とエホバの証人の言う血の誤用と不道徳さえおこさなければ、自分に対しても他人に対しても特に何も思わなかった。誰が家を買おうが、高級車を買おうが払えるお金があるなら結構。それは物質主義じゃないし執着でもないと思っていた。
 
 
 私は上記のようなエホバの証人だった。簡単に言うと、それなりに真面目にやっているけど遊びも同じくらいにして世俗の仕事も大好き。友人や親友と呼べるクリスチェンもいたが誰とも心理的に群れない。誰とも群れないので誰とでも話すし仲良くする。という意志で生きていた。ここで群れないという意味は”依存しない”が近いと思う。
だって1世だから。自分で決めて行動するのが私としては当たり前で、そういえば長老に相談するということをしたことが無い。確かに無い。長老が私の何を知っているのか、という気持ちもあったのだろう。そう考えると今大きく言われている組織に対する信仰は上記にもあった様に希薄だったのかもしれない。たぶん長老としては扱いにくい兄弟だったろう。

 

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何か伝わりました?

次回は組織についてどう思っていたかです。

んでぁ!