今回の火山噴火で思ったことは、立場の違いを前提にしてる社会構成。
公務員が批判される一つの理由として、憲法での規定に反してるというものがある。つまり、公僕たる公務員としての責務を果たしていない、ないしは、そのような態度が見られないといった、主観的な意見であるが、これらはメディアでの情報などのマクロなものから、市役所に行った時の対応などミクロなものまで、その推論径路は曖昧であり、理路整然とした主張というよりは、立場の違い上あらわれる相違といった方が適切であるだろう。
このような主張は、とりわけ、表舞台でされることはなく、ブルカラーを中心とした専業的な役割を担う人々によって、飲み会の席や匿名性の強いインターネット上でされることが多いように思われる。
それには、やはり、相互的に構築されているメディアや常識といった抽象観念の影響を見ざる得ない。
従って、なにが正しいだとか、間違っているだとか、そのような尺度概念を用いて、何か正解を推し量ることは、初めから失敗しているし、そもそも、そのような人たちがそのような正解を出そうと考えているようには見えない。
正解とは、特定の目的に沿って実際の状況に変化を及ぼしうる活動とその内容であるから、実は、『それを敢えて”文句”として言う』という形式を取っていること自体が”正解”であるのかもしれない。
しかし、一つ、公務員の立場をそのような愚痴から擁護し、かつ、社会的立場の相違を前提にした相互理解・社会構築に言及させてもらえば、今も火山灰の舞う、危険物質に身体を曝している警察・自衛隊の方々の姿を見れば、それは明明に理解されるところだと思う。
2011年3月11日を起きた震災の最中、同じく地元の住民でありながら、公務員であるがために家族のもとに帰らず、探さずに住民の生活を第一に考え行動した地方公務員がどれだけいただろうか。
もちろん、その場にいた人全員が全員ために考え、行動していたことは、その内実までには想像が及ばないまでも、そのような現象が起きていたことは”メディア”を通してしるところである。
しかし、その中でも、公務員は特別である。なぜか。公務員は働くということに関して、リスクを負っていないからである。震災があっても彼らは今後の生活を維持する基盤、職は保たれるという保証があるからこそ、そこで頑張る必然性が生まれる。一方、消費主体であり、かつ、動産資産、不動産資産が職に直接的に関わっている(自営業者など)人々はそのリスクを負っている。しかし、これは、経済という観点から、現代としては社会維持のための不可避的な必要項である。しかし、それでは、リスクが大きすぎる。だから、公務員はリスクの少ない立場にいなければならないのである。
これは、社会的なリスク回避のために必要なシステムである。
もちろん、これが公務員の怠惰を許容する理由にはならないが、それ自体、曲がった推論であることは自覚されるべきだろう。
曲がった推論は、度合いの強度としてあらわれる。今回の噴火に対して余地をできたんじゃないか、その技術はあった、なのにしなかった、といって一日中メディアは報じている。
曲がった見方をすれば、視聴率主義。
曲がっていないように見える見方をすれば、漸進的な社会改革。
このような形容とともに、自分の認識が説明されることが、普通のはずである。
それぞれがコミットする集団を擁護し、それ以外を排他的に認知するのは、人間に備わった神経生理学的認知の在り方であるので仕方ないとして、それを再帰的に内省できない態度は、いただけないと思う。
何かを前提にするということは、それを引き受けることに他ならない。
つまり、全てはフリなのであって、ガチではないのである。紀元前から言われている有名な言葉に中庸、もしくは中道というものがある。
では、そのフリとガチの境界を明確に示せるのか、と聞かれると答えに臆する。できない。全状況の首肯と行動的批判をわけるなど、分類することでしか、乗り越えられないのである。これを認めるか、否かも問えない。そうすれば、もはや、すべてを”受け入れる”ほかないように思われるし、しかし、それ受け入れていない人間がいる、いないという判断もできないので、やはり、”引き受ける”しかないという結論にいたるのではないだろうか。
認知とは、特に、観念を扱う範囲では、人間の操作可能性を引き受けるべきである。そう考える理由は特にはないはずだから、である。