死に触れた人の文章を読んで思うこと
私は非常にポジティブな人間なので、とりわけ、病気とか、死とか、失敗とか、変な人間関係とか、何にしても、何も思いません。考えますが、感情も生起しますが、特に何も思わないです。
初めに、AだからBというような書き方をしましたが、実際には、BだからAです。つまり、自分をポジティヴィストだと見なしませんが、形容をするならそうなるだろう、ぐらいであるということです。
関係ない話が何故続くのかと思われるかもしれませんが、僕にとってものごとの認識は、死だから特別とか、ジェノサイドだからひどいとか、そのようなことはないのだと思います。
もし、身近な死が起きれば、記憶の多くが脳に自動再生され、その悲しさなどは増すでしょうし、そのあと自分の生活の変化を考え、何かを思うかもしれません。
その際、私たちはそれを何かの目的に沿って形容するし、読み手はそれを踏まえ書き手の意図を想像し、何かを思うわけです。従って、書き手はその読み手の読みを想像し、自分の意図を汲んでもらうために形容すると言えるのです。書くという行為が、読みと同一であることは、理解されるところだと思います。
文学好きな人であればそれを素晴らしいと言うでしょうし、このような話が嫌いな人、このような話をする人ないしは事が嫌いな人であれば、その意図に傲慢な態度を見出し嫌悪することでしょう。
いずれにせよ、そう見るから、そうなのです。
”死”を書き表すとは、どういうことでしょうか。
上記のような意味で、私はこの行為自体について、大変面白いと思います。可笑しいのではありません。面白いのです。
まあ、身も蓋もないような話になってしまいました(論理的にはA-A’と言っているのにすぎませんので笑)。
最後に、その方の文章で”生きる意味”ということについて、フロイトの名を出して、生きる意味のなんてもともとない、とおっしゃられていましたが、そうだと思います。
つまりは、タイトルのそれらしく、”死に触れた人の文章を読んで思うこと”と載せたのは、それらしさです。
なぜ本心を言わないのか、まず本心なんてありませんし、本心として認識されるようなことを言ってしまうのは、ルール違反だからです。
ルールがなければ、楽しめない。
カフカの”掟の門”で、死ぬ間際の男の台詞
『誰もは掟を求めているというのにー』
そして、その掟の門はその彼の一人ためのものであったことを告げられ、その言葉を最後に、掟の門の前で死ぬ(?)。
ルールなんてものもそんなものかもしれませんね。