遺伝子自体にも選択性が存在していて、それは一種の恣意性、不確実性であるらしい。
とすれば、私たちの言葉自体が持つ、恣意性もそこから、来ているのか、というようなことを言ってしまうことは神秘主義に落ち込む。
しかし、しばしば、他の人と話すと、どんなに分かり合っているように見えたとしても、それは、そう見ているだけであって、実際はそうでない。しかし、この”実際”というのも、真なる三角形は何か?と尋ねられ、それを提出できないような地点のお話である。
つまり、そう見えるが限界であり、マキシマムであり、微分を仕様にも、それ以上はどうやらできないらしい。それなら、いくつか別の道筋を示し、理解の仕方がいくらでもあることを示すと同時に、それらの共通項らしきものを提出して、帰納的に、分かり合うのが芳しいのではないだろうか。
ならば、恣意的に恣意的ではないなように振る舞えるようにできることが、せめて、出来る事なのではないかと、思われるわけである。
複雑で、雑多な現象の共通理解となるような(すべきような)地点を模索する。
現象学的なそれは、一体、なんなのか。
還元主義ではいけない。ならば、どうするのか。
相対主義では、いけない。ならば、どうするのか。
全体主義では、いけない。ならば、どうするのか。
はい。
だめです。
こんなこと考えている地点はまだだめなのです。
そう大半の人が思うことだろう。
人の天才とか、難しいとか、すごいとかいう言葉に辟易する。
大半のその言葉は、理解をするためのものではない。詩的な表現になってしまうが、その言葉は、自分とその崇高な何かを遠ざけるために、発せられたのではないかと思ってしまうのである。
自分の今を守るために、その世間一般ではすごいと評されるべきらしいそれを自分から遠くに置く事で、自分の今の位置を懸命に守ろうとしているように見えるのである。
もちろん、その”すごい”という言葉から、羨望を抱き、細かに分析して、それを理解し、近づこう、近づこうと努力をする人もいる。
しかし、その”すごい”という言葉から、羨望を抱き、大まかに分析して、それを理解し、近づこう、近づこうとする人もいるわけである。
”すごい”という言葉は同じなのに、どうやら、同じ意味は持っていないようである。
そんな抽象的なもので、なにが言えるのか、と思われるかもしれない。
いささか、それはには、疑問を呈したい。言葉とは、なんかこう、できてしまったもので、もちろん、規則性は存在するし、つぶさに見ていくと大変興味深いものであり、このような言葉遊びをするさい、もっとも重要なものであると思う。
しかし、それだけでは、どうにもならない地点がないだろうか。
脳の差異や、タンパク質の違い、神経伝達物質、それらの受容機能、それらの産物が言葉なら、それを規則だてたものが言葉なら、抜け落ちているものは必ずある。
同じ言葉の理解の違い。
抽象的な観念の操作。
ワーキングメモリーの容量。
全て違う。そして、かんきょうも違う。
そもそも、アカデミックな知識体系にコミットしない人だってたくさんいるのだ。
経済てきな 面
人道的な 面
倫理的な 面、
いろんな面があるがそれは無視できないけど、無視して。
理解しようという時の構えが大きい。
安定的な認知を保つために、多くの情報は捨象される、ないし、変容されるわけで、理解しようという”構え”が違う。
それは、事後調査で数字的に示せるものもあるだろうけど、そうでないものもあるだろう。
構え
これも、幅広い概念だが、
重要であるだろう。
日本人には、武士の文化の流れで、”建前”というものがある。
精神分析で言えば、超自我、現実界だろうか、あるはずだが、触れることは永遠に出来ない。触れようとすれば、たちまち消えてしまう。しかし、気付いた時には、また、あり、それがいつあらわれたのかもわからない。
”建前”とは不思議な観念で、どこにでもあるように見える。
というえば、反証可能性はないのだが、どこにでもあるのである。
一度見てしまうと、意識から、取り除く事は難しい、あの絵の中の犬のようなものである。
安定的な認知をそれに置き換えてみたい。
精神分析的思弁で言えば、
割愛
行動傾向から、自己表象を造り上げる、ないのだから、作るしかないのではないか。