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The purpose of this is a display of my opinion and concreting it.
ブログでは主に、新聞や鑑賞した作品について書きます。

理解するとはどういうことか、

実際的な理解も、論理構造如何に関わらず、一種のクオリア、赤という感じ、宗教的な感覚、というようなものがいつも付き添っているのだと思う。



理解を問う、とは不思議なもので、主観的な見ると常に目的性がある。
それは話し手、聞き手とともに、同じ事態の中にある。
それは、理解をするという内的な行為においても同様であり、理解をつくるのは一種の能動性だと哲学的な思弁では表現することがある。それは、恣意性、などという言葉で表現されることが多い。


しかし、これが、神経科学や脳科学などの分野では、一変する。

意識の存在が問われる。

そのような動向は、反哲学と呼ばれる時代に色々な形で現れた。

やはり、それは現代的な政治システムなど根幹に置かれている、自由意志について、一方的的にではあるが、素朴な疑問を提出してくれる。

”自由意志”


この概念がいかに、既存の制度の中、ないしは、人々の意識の中に入り込んでいるかを見て取ることができる。

少し、ここで主観的な見方について考えたい。

認知不協和理論をベースにする。

Aは、Bに没頭している、しかもそれは倫理観を伴うもので、Aはそれを生き甲斐としている。社会をよい方向へと導く、とそれを信じているようである。また、このようにも言えるかもしれない。Aは、そのような信念を持ってしまう、ないしは、持てる人間である、と。
さて、そんなAに、実験として、もちろん、Aの意志で、参加してもらった。
自分の信念と反する行為をしてもらった。
Aは、おそらく、色々な葛藤の中で、その行為を遂行したにちがいない。しかし、心理実験という、巨視的に見れば、自分の信念と整合性を保つ事が出来るものであったため、コミットしてしまった。
Aの信念は、実験後に、どのように変化したのだろう。
Aは、その実験後のアンケートで、実験前の自分の信念と相対するそれを肯定的にみるようになっていた。
しかし、彼女はすぐにその後、以前の信念を肯定できるように参加していたことが事後調査でも判明したのである。


どういうことだろう。