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The purpose of this is a display of my opinion and concreting it.
ブログでは主に、新聞や鑑賞した作品について書きます。

以下は全て例えばの話です。
日本の文化を恥の文化として提出するようなお話がある(とする)。グローバリズムの中で、こういう話は至るところでされていますが、そのような話をしたい人たちはこういう言いたいのでしょう。

『日本人は日本人固有の行動を取る。なぜなら日本人は日本人だからだ』

実際に詰めてみると、”日本の文化は『恥の文化』だ!!”は同義反復、トートロジー以外のなにものでもありません。AだからBである、と言いいたいのかもしれませんが、AはA’であると言っているにすぎません。

これに類似しているのが、アイデンティティです。
アイデンティティというと、学術的、あるいは臨床的なニュアンスを抱くかもしれないので、愚痴る時にしばしば現れる括弧付きの頑張ってるが頭についてる”私”であると言い換えます。※(頑張ってる)私

この”私”は不可思議な存在です。
そもそも健常者には、この”私”が現れることがほとんどありません。
しかし、面白いことに、それが一度、外部の人に触れると現れるのです。例えば、好きだという感情はその顕著な例の一つです。

有名な実験なので、知っている方も多いとは思いますが、ある二つの顔を並べて置き、非意識下で起きている眼球運動を測定します。そして、その眼球運動が一方の顔の方に特定の割合で割り振られる時に、好意が生起します。

つまり、単純化すると、好きだから見るのではない、見るから好きなのである、ただし非意識下において、という文言で説明されます。

単純接触効果という有名な現象をご存知かもしれませんが、これもそれに類似しています。これは、中性的な刺激も繰り返し見ることで、親近性が沸き好意が増加するというものです。これは、知覚的流暢性誤帰属説という仮説で説明されます。

ヒトは、処理されやすい情報を”好む”ということです、正確には”選好する”と言うべきでしょう。

平均的な顔が最も好まれやすいというのも、このような理論から説明されるのです。

さて、ここまでくれば、冒頭でした話も見えてくると思います。なぜ私たちはアイデンティティ、つまり、”私”などという概念を(当人がそれを単なる”概念”だと見なしているかは知りませんが、)作り出した上で、認知活動を行い、あたかも、それによって喜んだり、落ち込んだり、怒ったりするのか。

以上から、それら意識活動は、脳内のニューロンの発火頻度や構造的な差異にすぎません。なぜなら、物質的な変化の事後に意識活動は起きているからです。

つまり、私という概念的な存在は、最も認識されやすいものであると言えるのです。なぜなら、ほぼ全ての認識活動に用いられるからです。そしてそれは、常に外部世界を伴っている表象です。
従って私たちは、