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The purpose of this is a display of my opinion and concreting it.
ブログでは主に、新聞や鑑賞した作品について書きます。

小坂井敏唱さんに倣って。

ある男が浮気されたことに腹を立てて、彼女を複数回包丁で刺し、重傷を負わせた。しかし、たまたま、その日は年一度のよさこい祭りの日で、救急車が遅れ、彼女は死んでしまった。

一方、ある男が同じように浮気されたことに腹を立てて、彼女を複数回包丁で刺し、重傷を負わせた。しかし、すぐに救急車で搬送され、命は取り留めた。

前者は、殺人罪。後者は、殺人未遂。
罪の重さが違います。これはどういうことでしょう。
その男の行為には差異はありませんが、犯人は無関係の外的な要因によって、この場合はよさこい祭りの最中であったか、否かで、刑に違いがであるのです。
※思考実験ですので、”道の込み具合の違い”という要因だけで進めています。

動機、意図、行為すべて同じなのに、責任及び罪が異なるのか。

この思考実験は、刑罰、ないしは責任という社会的な概念を考えるうえで、重要な示唆を与えてくれます。

私たちの活動の中に、”私”という概念で自分のことを指し示し、喜んだり、悲しんだり、怒ったりするものがあると思います。この場合、それを保証しているのはなんでしょうか。

”それは私が私であることです”

確かに、頑張れば一理あるように解釈することはできるのかもしれませんが、言っていることは”AならばA'である”と言っているにすぎません。
ここで聞きたいのは、”A(私)ならばB(自由な行為)[必然的に]する”と言う際に、Aはなぜ置かれるのかと聞いているのです。
このように問えば、答えは簡単でしょう。
BのためにAが置かれる必要があるからです。
つまり、実際は、”Bにおいて、AならばBする”という形式を取っているのです。言い換えれば、”B(自由な行為をする)ならば、[それ]はA(私で)ある”と言えるのです。
自由な行為を保証するために”私”というものが置かれている。そのおかげで、責任を措定でき、刑罰と秩序を置ける。そして、これらの自由な行為をベースにした責任、刑罰、秩序は事後的な構成概念ですので、Bには含まれません。それは、”[それ]はAである”の”[それ]”に含まれいるのです。
この[それ]が導入されなければ、”私”は措定されません。

では、刑罰の場面におけるそれについて見てみます。

明らかに、違った形式をとることはお分かりになると思います。
先ほどの例では、犯人の動機、意図、行為については差異はありませんでした、しかし、刑罰には違いが生じる。責任には違いが生じるわけです。

これはどういうことでしょうか。

”私”の動機、意図、行為の内容に差異はないく、かつ、それらの結果が”私”に全く関係のない外的な要因で変化したとしても、その責任には結果に準ずる。

これは、”B(自由な行為をする)ならば、[それ]はA(私で)ある”と同じ理論構造を取っています。
これが、《私》の構造なのです。つまり、《私》とは、前件、”B(自由な行為をする)ならば、”というルールありきの概念です。

従って、例えば、精神科医は犯罪者への内的帰属に関して、程度を甘く見る(人間が暴力的になる予測)バイアスがあることが知られています。
では、なぜ、裁判では、そんな精神科医が鑑定に使われるのか。
もし、秩序のために、犯罪者をよりぶち込みたいなら、バイアスの薄い、社会心理学者を使うべきではないでしょうか。
しかし、現実には精神科医が役割を果たします。

なぜか。

それは、”B(自由な行為をする)ならば、[それ]はA(私で)ある”からであると言えるでしょう。
知的障害を持つ者が犯罪を犯させば、責任能力の有無が問われます。マインドコントロールなども同様です。この場合、前件が争点になっていることは明確です。
精神科医の役目とは、秩序の目的とは、自律的主体の確保に他なりません。
責任とは、間違いなく、人間の条件そのものです。