友人に勧められ、今回、多島斗志之さんの”症例A”を読んだ。
まず、いらないとは思うが、私の個人の立場について、読む以前と以後でどのような変化があったのかを述ておく。
精神病理モノ、いわゆるサイコものであることは友人の言葉でわかっていたが、自分自身、このような人間の精神病理をテーマにした小説を読むことを意識的に避けていたつもりはなかったが、これは、今思えば不思議なことでもある。”無意識的に距離を置いていた”という表現がどれほど適切かは分からないが、そのような側面があったのかもしれない。また、一歩進めて、その理由を推測すれば、おそらく、それは、精神分析をベースにした、思弁的な、文学的な、色物に対して、批判的な態度があっただろう。
今回、この作品はそのような私の安直なイメージを変えてくれたように思う。
簡略的にではあるが、軽く感想をまとめたいと思う。なお、これ以下は、ネタバレを含む内容になるため、今後、読む可能性がある方は、読むのを控えるように勧める。
さて、”症例A”という字面を見て、かつ、精神分析のとりわけラカン派の文献を読んだことのある方ならば、”対象a"もしくは大文字の---を思い浮かべるのではないだろうか。そこから、物語についていくらかの憶測してしまうのも、小説の中にある通り、高度な概念操作を弄ぶ悪癖を持つ人間の性ではないだろうか。
しかし、この小説は2000年に出版され、制作に7年近くの歳月をようしている(小説ないで、分裂症という用語扱われているが、その理由はそこにある。巻末にて、注意書きがあるので、それを参照していただきたい)のにも関わらず、そのような精神分析の反証可能性のなさを十分に自覚した上で、ないしは、そのような動向について、一般の方でも、わかりやすいように、議論が進められおり、また、なんらかの精神分析や臨床心理に関して知識を持っている方も、小説であることを踏まえれば、すんなり内容が飲み込みやすくなっているのではないだろうか。
精神科医と臨床心理の関係。
処方に関しての記述。
病理に関しての解説。
など、物語を読んでもらえるようにする工夫が随所に見られる。また、詳細な調査を想像させる緻密な情報とそれらの記述も、推敲された物語に説得力を持たせているのだろう。
そのような観点だけでも十分に楽しめる内容であるように思えた。
次に、ストーリーについてであるが、まさに小説。友人も言っていたが、フリと回収が奇麗に行われて、気持ちよく読める。物語としても面白かった。楽しめた。どのように表現すれば、嫌な感じにならないかはわからないが(何かについて感想を言うという時点でそれは不可能な試みであるのかもしれないが)、ページが気がついたら、100、280、400…とめくれていった。
そして、精神病理を追うものと美術作品を追うものという形式のもとで物語は展開していくのだが、それらが、物語上で交錯していく過程ももちろんだが、これらが、アナロジーとして描かれている点も興奮を起こしてくれた。最後の、医院長の長台詞は、それについて、面白い視点を与えてくれる。
そして、なんといっても、この小説のテーマでもあると思うが、『”治す”とはどういうことなのか』これが、常に読むヒトを離さないように思った。
治すとは前提として、そこに病理を見ることである。そして、それは、社会でいきていけない程度ということであると思うが、読んでいる最中に自身や周りの人について、”正常”という状態について、ゲシュタルトの崩壊が起きる。
ある実験にこのようなものがある。
アメリカで、ある精神科医3名がそれぞれ、精神病院に入院した。その目的は、精神疾患であるとして、入院したヒトが正常だと、精神科医が見抜けるのかどうかを確かめるというものだが、彼らは、最短でも3ヶ月は退院をゆるされることはなかった。
実験が統計的に有意味であるほど、この実験は行われていないため、これが、一般的な現象として認められるかは分からないが、その判断が難しいことは想像に易い。
私たちの日常にしても色々ヒトがおり、生活をしている。この人こういう特徴があるな、この人少し変だな、と思ったことはないだろうか。例えば、家族がそれに過敏に反応し、それらしい出来事さえあれば、そのような人たちは、なんらかの精神病理ないしはそのような傾向があるとして、診断されることだろう。
語弊を恐れずに言うならば、それはそこに問題が生じるか否かだと言えるのかもしれない。
そのように、大変微妙な境界を私たちは生きているのではないだろうか(※これは、”そのように見たいから見るのではないか?” というありがちな文言に近いだろう)。
この作品を読む中で、自身のいくつか経験が想起されるかもしれない。
執拗に日記を書く人
執拗に家族との不仲を吐露する人
執拗に人肌を求める人
執拗に干渉を好むような言動をする人
どれも日常的に観察される現象である。
そんな時に、あなたの日常が少し違う様相を伴って現れるのではないだろうか。
おそらく、『”治す”とはどういうことなのか』というテーマに対する反応として、幾何かの、帰結を導きだせるのではないだろうか。
この小説の終わりにも、あったが、私は、その考えを尊重したいし、おそらく、そうなのだろうと思っている。
人は関係の中にしか存在できない。
そして、統計的にも、確実に疾患をもつ人が現れる、その中にである。
ならば、私たちは、向き合い続けるしかないのではないだろうか。それは、何か、挑戦状のようなものかもしれないし、はたまた、そんな中にも、予想だにしない関係が生まれるかもしれない。人の多面性だって、状況に依存している部分がでかい。行動一つで考え方だって、変わってしまうのだ。それを示す実験も多くある。
治す=なくなる、という定式はおそらく存在しないのではないだろうか。
そのような前提自体、病理を生み出しているのではないだろうか。
私は、わからないが、楽しむ準備はできている。小説とは寛容的な態度で臨むものである。
それは、人間にも然り、だと思った。
最後に、精神病理の分類に然りですが、”分類”という作業には、目的性が必ず存在します。そのことについて、自覚的でなければ、再帰的態度で臨まなければおかしなことになるでしょう。