”Black Lagoon" の日本編を久しぶりに読むと、なんでハイデガー、サルトルが随所に使われ、その傍らでは、ヤクザの娘に生まれながら”普通”に暮らす雪緒と文学部の後輩の関係が、実存主義系の思想と現代社会の闇や他者の不条理に由来する恐怖を描いたモダンホラーとの対置関係として置かれているのか、なんか少し分かった気になる。
最後も間違いなく名シーンだけど、それ以上にやっぱり、攫われた後のロックと雪緒の二人のシーンの会話が全てを集約してくれてると思います。
”選んだと思わなきゃ、覚悟なんてできません”
”建前と本音”だなんてよく言うけど、実際にそれが建つのは、前者の場合のみであるように感じます。しかもそれは、それが実は倒錯していることに再帰的に気がついていることが前提条件です。その意味で、コミットメントなのでしょう。
最後、ロックは自分が”夕闇”の中にいることを認めます。それは雪緒が言ったそれとは少し違う様相を持ったものでしょう。それは実存主義とモダンホラーの中間地点のような場所で、彼(ら)の言う通り”生ける屍”もしくは”死に場所探して生きてる”というような存在だと言えるはずです。
そして、コミットメントの倒錯は、最後、銀次と雪緒の死という形でアラワレます。つまり、レヴィの『お前生きようとしたな』の一言。そして、銀次は頭を打ち抜かれる。
漫画では、生きることへの執着(将来を思い描く)が集中の分散を引き起こし一瞬の隙を与えてしまう、という描写になっていますが、これはその戦闘という特殊なそしてリアルな意味を与えてしまいますので置いておいて、あくまで、観念的に…。
むしろ、死によって生が肯定される、というのは実は論理的には、最も整合性を持ちます。それ以外の生の肯定は、間違いなく”AならばA"と言っているのにすぎないからです。
従って、選んだことによって、生が保証されるなんてものは、虚偽に過ぎません。しかし、それは、雪緒もわかっている。
”選んだと思わなきゃ、覚悟なんてできません”
カフカは、人は生きるためにルールを求めると言いましたが、これはそれに近いように思います。人は、制約の上にしか、生を見出せない。制約を受けると選択した時に初めて生を獲得できる。むしろ、そうしなければ、覚悟なんてできない。”フリ”だとわかって”ノル”から”お笑い”が成立するのです。
しかし、実際は、違う。
雪緒と銀次は生きるということを死とともに思い出した。
死んで初めて、未来を思ったことに意味が付加される。
二人の”生き様”、おそらくそのように描かれている。
そして、件が全て終わり、レヴィとロックが帰るシーン。
ロックとダッチの会話の中で、サルトルの話がされます。人間をサイコロに置き換えたオシャレな会話ですが、その中で、サルトルが”変わり者で斜視の老人”と説明されます。
ダッチたちは”生ける屍”、サルトルは雪緒たちの側です。そして、斜視は生に対する倒錯した見方にかけているだと思います。
そして、最後のコマは"Welcome to Japan"です。笑