以下は梶井基次郎の短編『檸檬』を読んだ感想文的なものです。とくに、中身には一切触れていませんし、しかし、それにも関わらず、読んだことのある人にしか、わからないような内容になっています。しかも、それ自体、抽象的なレベルに止めてます。従って、くそわからない文章になっています。
余裕のある人生を送りたいが、厳粛に無理であるその事実が、然う然うに、アラワレル。
余裕があるという状態はいかにして測れるのか、という問題も粛然とそこにあるし、余裕がなんてものがあるのか、むしろ、「一生懸命に生きていたら、そんなもの死ぬまで掴めんさ」と言って失笑するあの人の姿も見える。
だから、とりあえず、梶井基次郎の『檸檬』を読むことにした。
このウザったらしい、冗長な文面もその影響に相違ない。唯物論者たる私は、その影響を素直に受ける、という才能を持っている、このことが時折、小さな自慢でもあるのだが、分裂症患者のような神経衰弱も、仮有にも、遺伝的に受け継いだ不安障害傾向も、その諸産物であるという私の推論はその素直さを助長しているように思われる。
さて、”夭折”という現象はいかにして生まれたのか、荒井由美の『ひこうき雲』か、若き文学少年たちの死か、若き有名歌手たちの集い”The 27 Club”の影響なのだろうか、死が名を縁取るのは、何故なのか。幼稚園児でも、いや、像にでも、わかりそうなこの問い。今更聞くのは面白みに欠ける。
梶井基次郎、その人も夭折の人であった。
『文壇に認められてまもなく、31歳の若さで肺結核で没した。死後次第に評価が高まり、今日では近代日本文学の古典のような位置を占めている。その作品群は心境小説に近く、自らの身辺を題材にしている事も多いが、日本的自然主義や私小説の影響を受けながらも、感覚的詩人的な側面の強い独自の作品を創り出した。』(wikipedia)
そんな人であったらしい。
私は、鄙野に辺鄙なお店も知らないし、街の百貨店の華やかさに受ける印象もない。ただ、化粧なんぞの匂い香に鼻をつかせるだけである。
もっと言うなら、家から出る気力するらもないといった心の状態であり、タバコを吸いに行く元気すら起こらない身体である。
色とりどりの書物もなければ、紡錘形の黄色の色彩を持った柑橘フルーツもないのである。加えて、それらで、積み木遊びをするような気概もないのである。たとえあっても、変に歪曲した下を彷彿させる黄色の実芭蕉がある程度である、タバコの容量で咥えて吸ってやれば、共食いもいいところ、矮小な絵図が積み立てられるに違いない。
余裕がない。
ただ一つの原因を用意するなら、それしかない。私には余裕がないのだ。あれば、やっている、陳腐で、価値のないことと分かっていても、それをやるだけの余裕がないのだ。古代の有象無象が、神に求めたその役割を、私は、余裕という二文字に託すのである。余裕がない、余裕があればやっている、でもないだからしょうがない、それが人間だ、と真面目な顔をして、言ってやりたい、気持ちなのである。
ひとまず、タバコを咥えるところからはじめようと思う。
「つまりは、この重さなんだなー」とか言って、この上なく、美味しそうに、幸せそうに、HOPEを吸いたいのである。まあ、Shrot Hopeではあるが。