近代、現代、の作品のなかには、選択性の排除があるように思える。
一握の砂、堕落論、銀河鉄道の夜。
今について、時代の趨勢に従わず得なく、”今”に至るという邂逅。
※ 今:通念的今
”今”:独自としての今。この”今”は全体性を無視してはあらわれないように見える。
自分の浅学は虚しい。
おそらく、そこには前提として、”私”があるのだと思う。
卵は間違いなく後である。
そうする理由があったに違いない。
それは、歴史を思った時にあらわれる反省であったようにも見えるし、
それは、自己を措定することで、見るべき未来を据えたように見える。
それは、間違いなく、邂逅でなければ、ならなかった、はずである。
背負った責任の転嫁。
ただ、私から”私”へ。
畢竟、偶然がつなぎ目である。
むしろ、それを埋めんと必死をこく、姿がある、ようにみえる。
自分の好きなものを、好きであることを、守るために他者を排除するのは、大変ウツクシイ姿である。
と、彼らは言うはずである。
また、食べられそうになり、井戸に落ち、神に願った蝎が、真っ赤に燃えて、皆を照らす自分の姿をみたように、私たちは、それをみるべきである、ように思われる。
偶然は偶然のままにあるべき、だと思う。