ファック!!!
便利な言葉です。
宗教の壁を崩壊させれない。
リアリティーとは、言語に意味をあたえる物でない!?
何がリアルであるか、何がリアルでないか、それ自体が言語の持っている意味内でのことである。
リアルとリアルでないものの区別自体、リアリティの一致、それぞれの概念が、また言語の中にある。
ならば、それを真の意味でのリアリティの存在を証明できるだろうか、
それならば、それはどこなのか、
ずるいぞ、いや、ずるいと考えること自体がおかしい、のか、
語られる以前に、決定、という意義を纏う、それは、それでしかない、じゃないか、
なんなんだ、自分思考がどっか別次元につながってるっていうことか、心は宇宙ってか、ならその宇宙ってことばはどこのことばだよ、ここの言葉じゃねーのかよ
ん?宗教について語った瞬間に、終わってるって?
押問答だな、ん?主張じゃないって?
ファック!!!!アブストラクション!!!ファック!!!
しかし、あなたは、その主張という言葉をそのような意味で使っているのはどういうことだ?
なにが言いたいかというと、宗教的な言説にしろ、日常的な言説にしろ、互いに自足することがありえるだろうか。むしろ、根底をなす、言説は日常的なものであるのではないか。
人間が人間であることは、男女という関係なしではありえないように、この2つの関係はまさしくそうではないか。
だけど、この視点も一つの視点にすぎないのかもしれない。
暗黙の説得な定義を帯びているが、その視点もまた、ひとつの特異な優位性によって支えられている。自足しないのは、彼らだけでなく私たちもだからだ。男と女、女と男そのどちらかに限定できることはない。私の主張もまた、その意味において、宗教的なそれと同じ立場にいる、ということになる。
どうしたらいいんだ。
信念を持たない人間などいるのか?
ある哲学者は、思考の根底をそれにおく、一人の人と出会えば、その人の認識の方法から考察し、社会的構造のなかで、その人を捉えるだろう。
伊坂幸太郎のマリアビートルの蜜柑は、思考の根底を、トーマス(きしゃぽっぽ)におく、その人の思考、行動、をそのキャラクターの世界を通して、理解するのだ。
思考の基盤は誰にでも、存在する。しかし、それがいかに不安定なもので、確実性の欠けたものか。
どうしたらいいんだ。
そもそも何を目的にしていたっけ。
宗教の秘境性を攻撃したかったのか?
日常言語の優位性を主張したかったのか?
なんだっけ。
宗教という世界の虚偽性を示そうとした。
しかし、陥っているのは、自己の世界の虚偽性。笑
面白い。笑
皮肉だなー。
ここに人間の美徳時な考えの根源が見える。
不完全性こそ、美しい、などという考え。つまり、頑張ったからいいよね、のそれだ。ここを限界に決め込み、止めた結果である。これを逃げたと表現すれば、その感情自体が、そのうちに包まれているのか。笑
笑
しかしだ、2つの関係は、対話を可能にしている。
この事実は変えようのない、真実だ。
そしてそこに、共通の土俵が存在している、という可能性が現れる。
つまり、この共通の土俵、の存在が、いわば、自分の宗教や信念の抽象化の場であり、相互干渉の場なのだ。ここがなければ、ならない。
宗教というものについて考えたいたが、そこに飽き足らないだろう。
すべてのコミュニケーションにおいていえる。そういうことになる。
怒る、という感情がある。
怒るとはなんだ。
なぜ、怒る。
怒るという感情はこの相互関係において自分の信念の過剰な信頼におけるものだろう。
怒るとは、自分の価値観の範囲から外れたものごとに対して、正当な理由付けができない、ことによって起こるのでないだろうか。
そこに、自己に対する過剰な信頼が芽を出している。
そこに帰結を持って来ざる得ない。
ファック!!!!!!