rorty | domanのブログ

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ブログでは主に、新聞や鑑賞した作品について書きます。


リチャードローティ、改めてすごい人だと思った。


ネオ・プラグマティズムの元を造り上げた人だが、


彼の使う「ボキャブラリー」「アイロニスト的なボキャブラリー主義」に共感?覚えた。


自文化中心主義といえば、理解しやすいだろうか。


いま自分が使っている、言葉、つまりボキャブラリーは自己の価値観の中でしようされるものである。


そして、自分が抱く世界というものは、その言葉で描かれた制作された物語なのである。


ある人が、泣いている幼稚園児を見て、「かわいそう」だと言った。
同時に自分も、かわいそう、だとおもった。
しかし、この、かわいそう、は同じ意味で使われ、同じ世界を制作しているのだろうか?


この場合では、おそらく同じであろう、常識という概念から、その状況は、泣いている→なにか悲惨なできごとがあった→そのできごとの対象もしくは主体が幼児であった→それは、年端のいかない幼稚園児のようである→かわいそう(負の意味合いをもつ言葉)をイメージとして抱く。
認識の順序には間違いがあるかもしれないが、こんなところだろう。たしかに、ある人と自分は同じ考えを抱いているかもしれない。


しかし、これは自分のいる文化、つまり、その自分を形成した文化内での言語による制作であることを明記しなければならないだろう。


例えば、秘境の地では、泣く、という行為が、なんらかの儀式的な行為であり、なおかつ、その儀式の対象もしくは主体は幼児であり、儀式の際には日本で言う所の「幼稚園児」のような服装をさせら
れるのかもしれない、そうすれば、その泣く、というもの神聖なものであり、かわいそう、という制作は行われないかもしれないのである。


秘境の地などという、例をだしてしまったから、当たり前やん、と思われた方がいるかもしれないが、言語による制作には、自己の所属する立場を通していることは、忘れてはならないことであろう

飲み会、合コンで、滑っている人を見たことがないか?もちろん、多様化し、進化するお笑いの文化では滑りを面白くする技法も発達しているが、本気で面白いと思ってやって滑っている人がいるだろう、これはまさしく、この制作の方法における、やる側と見る側の差異である。
これが面白いであろう、と思って、やった行為が面白くない。つまり行為という制作物を認識する過程に置いて、面白いという言語ないし概念の範囲に入らないということである。この差異があるのである。
厳密言及していけば、間違いはあるが、こんなようなものである。面白いという言葉に行き着く、脳内に描く、という意味で解釈して欲しい。


つまり、それを受け、こいつ面白くねー、と思うのはあるプロセスが抜けているように思うのである。この人の面白いと思う概念の制作は私たちの制作の方法とは変わっていた。だから、面白いという概念に結びつかなかった。その意味で、面白くないな、である。笑


つまり確定した位置などないのだ。人はその位置を模索し続ける「アイロニスト的なボキャブラリー主義者」であった方が、円満にすすむであろう。


この差異性に目をむけることが、滑りを面白くする技術にもつながる、自分のボキャブラリーの世界と滑ったその人のボキャブラリー世界、そして(お笑いという場面なら観客、視聴者)笑わせる対象のボキャブラリー世界との差異を埋める作業なのである。


この意味で、「アイロニスト的なボキャブラリー主義者」として、世界、言語、文化、自己に関するものに懐疑的に、挑む姿勢は重要視していくべきだろう。
みなさんが円満で円滑な生活を送りたいならなおさらのことである。










rortyの晩年の変化については、同意しかねます、あくまでアイロニズムですよね。



rorty