記憶にとどめよう銀座シネパトスⅠ | 逢えるじゃないか また明日 PartⅡ

逢えるじゃないか また明日 PartⅡ

ボスザウルスの隠れ家から「逢えるじゃないか また明日 PartⅡ」に変更しました。yahoo!ブログの閉鎖に伴い、アメブロに移動し、合体させました。引き続き宜しくお願いします。

ただ今編集中に付きしばらくは不完全ですので宜しく。

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日本で一番有名な街、東京の銀座。
高級ブランドの店が立ち並び、おしゃれな紳士やご婦人が行き交う街。銀座でお買い物、と言えばそのステータスは、どこよりも高い。
海外のファンションブランドだけでなく、老舗と呼ばれる古くから商いをするお店もある。現在の銀座は八丁目まであるが、昔は銀座は四丁目までで、その先の五丁目松坂屋があるところからは、尾張町と呼ばれていた。この話は、生まれも育ちも銀座という、女優和泉雅子さんの話の中にも出てくる。
銀座は高級店のある都会ではあるのだが、実は本来銀座は下町。武家屋敷などあった山の手と違い、商売をする町人たちがいた町であり、日本橋、京橋、浅草、本所、神田、深川と同じ下町なのである。
とは言うものの、下町風情は今はない。そんな銀座の一角にある三原橋地下街は、階段を下りると別世界。昭和の面影を残す庶民の場所になる。
 
ここは江戸時代、水路を確保するために掘られた三十間堀川と言う川で、物品を運んだり屋形船などが出て、華やかな川だったという。昭和23年、戦後のがれきの処理をする為に埋め立てられ、昭和27年に埋め立てが完了。残された三原橋のあとを利用して三原橋地下街が出来た。先の和泉さんの話によれば、橋の下にはまだ水が残っていたとの事だった。その年の暮に、三原橋地下街が出来上がった。
店や映画館が代わる中、時代の変遷を経て、今の姿になった。
 
今、耐震性の問題が出て、名画座ファンに惜しまれながら、銀座シネパトスは、3月31日をもって閉館する事になったのだ。
ここに、銀座シネパトスの記憶をとどめるために、銀座シネパトスそして三原橋地下街を紹介しておこうと思う。
 
 
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有楽町から晴海通りを東に向かうと数寄屋橋交差点があり、さらに進むと中央通りにぶつかる。ここが銀座4丁目交差点。ビルの一番上にある時計が象徴的な和光本店。その向かいにはライオンが鎮座した銀座三越。丸いビルが出来た時はびっくりしたガラス張りの三愛のビル。そこを過ぎると左右に湾曲した道に出る。何か趣の違った建物の下が三原橋地下街。
 
 
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階段を下りると、百メートルには満たない地下通路が有り、映画館のシネパトスと、今は数軒しか残っていない飲食の店がある。
 
 
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チケット売り場にはお年寄りも並ぶが、若者の姿もある。昭和の良き時代の名画を上映しているだけに、昔映画青年といった感じの私と同じジジババの数がやはり多い。閉館間近といっても、券売をしている支配人や若い女性の声も、晴れやかだ。
 
 
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銀座シネパトス 1 : 177席
 
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銀座シネパトス 2 : 130席
 
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銀座シネパトス 3 : 72席
 
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閉館までの間、この映画館の呼び物のひとつ、トークショーが連日行われているし、
閉館を惜しむ中作られた映画「インターミッション」は、銀座シネパトスを記憶にとどめる為とは、何とも悲しすぎる映画ではあるが、映画を愛し、映画館を愛したたくさんの映画ファンにとって、かけがえの無い作品であることは間違いない。
 
閉館までのわずかな時間だが、駆けつけてみるのも悪くないと思う。