企業の様々な不祥事を見るにつけ、経済合理主義の功罪を考えてしまいます。
経済合理主義とは、経済活動の根拠や価値基準について、経済的に合理的かどうかを重視して実践することです。平たく言えば儲かるかどうかを優先して考える経済活動ということになるでしょう。
この考え方により経済活動が活発になり、利益が発生し、それを元に新たな投資が行われ、条件が整えばイノベーションも起こり、ひいては社会全体の活性化を実現させます。
したがって現代社会では、経済合理主義を頭から否定する人は筋金入りの共産主義者でもない限りいないでしょう。我々は経済合理主義の恩恵をずいぶん受けているのです。

しかしながら、企業の不祥事がなぜ起こるのかを考えると、この経済合理主義が行き過ぎて、つまり経済合理主義に囚われてしまったことに起因することが、例を挙げるまでもなく、ほとんどであることに気がつきます。
経済合理優先では、経済合理的に把握できない、把握しにくいことや、当然ですが経済合理に反することは活動を支える価値基準からも除かれていくのです。

日本では今でも近江商人が言った“三方よし”の概念が根強く残っていると思います。
経済合理主義だけに陥らないために必要な考え方が存在しているのです。
しかしながら、アングロサクソン社会では、そのようなことは共有されておらず、“利益最大化”、“効用最大化”、さらに言えば“株主価値最大化”が重視されています。
10年以上前の話しですが、会社の価値はどこにあるかという質問に対して、あるアメリカ人が株主価値最大化と答えていたのには驚きとともに呆れましたが、最近はアメリカでさえ、企業の存在価値はPurpose(目的)と捉える風潮もあり、さすがに経済合理主義の限界を理解し始めたのかもしれません。

経済合理を文化的視点で考えることもできます。
日本のように場の空気感や以心伝心といった言語以外で伝わることを重視する社会とは異なり、アングロサクソン社会では、伝えたいことはできるだけ言語化することが尊重されます。そうすると言語化しにくいことは省略される、あるいは重要と考えない素地が生まれ、結果的に言語化(数値化含む)が最大価値となり、経済活動もそれに倣い、数値=儲けが最大価値という論理が広まってしまうのです。

儲けが最大価値になると、近江商人が行ったような数々の無償の資金提供、社会インフラの整備などは経済合理の世界では否定され、活動の価値基準から外れてしまいます。
無償の資金提供、見返りのないインフラ整備などあり得ない、行ってはいけない世界へと遊離していってしまうのです。
経済合理主義は前向きではありますが、暴走のエネルギーを秘めており、それをけん制する価値観も有する必要があることを近江商人は十分理解していたのです。