政治哲学者のハンナ・アーレントが数年前より静かな脚光を浴びています。
アーレントは「全体主義の起源」や「人間の条件」などの著書で知られ、ナチスなどに代表される全体主義の問題点をその生起する状況から明らかにしましたが、現在の日本で注目されているのはなぜでしょうか。

全体主義に関するアーレントの主張は、「全体的支配は人間の人格の徹底的破壊を実現する」ということです。
そしてそれは現代社会にも通じるとして、「強制収容所という実験室のなかで、人間の無用化の実験をしようとした全体的支配の試みにきわめて精確に対応するのは、人口過密な世界のなか、そしてこの世界そのものの無意味性のなかで現代の大衆が味わう自己の無用性である。」と説いています。
ナチズムが特殊な体制であったと限定するのではなく、現代においても混沌とした状況のなか、自己の無用性を感じてしまうことは全体的支配の下にあるのと同様であると指摘しているのです。

そうした観点で現代をあらためて見てみると、主要官僚が指示した行政文書の改ざん、米大統領選で明らかになったフェイクニュース、コロナ下の陰謀論、ロシアによるウクライナ侵攻の根拠などに代表される嘘やデマは、現代の大衆が味わう無用性の陥穽を悪用しているように思えます。大衆の無用性は現代を象徴する現象でもあり、それは無自覚に浸透しており、そこに嘘やデマによる全体主義への試みが覆いかぶさってきているのです。しかも、無用性は無自覚に拡大しているため、民主主義の体をなしたまま全体主義に侵されるという笑えない落ちまで生じています。

また、最近では客観的事実が軽視される事例も後を絶ちません。SNSの発達により、自分が共感できる人や情報ばかり集まるエコーチェンバー現象が起きることで、自分にとって都合のよい世界が形成されてしまいます。情報過多の現代にあっては、情報の取捨選択は難しく、そのことがいっそう自分に都合のよい世界形成に拍車をかけます。つまり、善悪の判断や意見形成がいっそう難しくなり、他者と共有できる現実が失われ、社会の分断を引き起こし、逆説的ですがそれが全体主義の拡大を後押ししてしまうのです。

全体主義と分断に相補作用があるとすれば、分断を克服することで全体主義を回避する可能性があります。
アーレントは「政治」により分断を乗り超えられると主張します。しかし政治自体が全体主義に向かってしまっていてはその暴走を止めることは難しいでしょう。戦前の日本を例に挙げるまでもなく、多くの歴史がそれを語っています。
最近でいえば、プーチン政権やトランプ政権にその方向はあるでしょうし、日本においても前々政権、前政権にその萌芽はありました。

日本の場合は政権党内において比較的リベラルな集団のリーダーが総裁に任命されたため、全体主義が広がってしまう可能性は低くなりましたが、民主的な政治により全体主義への方向が修正されたのでなく、単に集団内の力学によって、つまり政党内のリベラル層が主導権を握ったため、全体主義に向かう力学が低減されたとみるのが妥当でしょう。

アーレントがいう政治による全体主義の回避は正論であり追求しなければいけませんが、現代においては大衆に無用性が無自覚に浸透しているため、悪意ある指導者が現れると難しくなります。
そしてそれにより集団や社会の崩壊が、大衆が無自覚のうちに訪れてしまうのです。