科学主義に偏ると「合法的だけれども不適切」「合理的だけれども不正」といった不条理に陥ることがあります。工場による公害の発生は、わかりやすい最たる例でしょう。最近では、市場中心主義による経済的格差、強い者がどんどん強くなっていく、経済的恩恵が偏ってしまう問題もこの範疇です。
(この問題は100年以上も前にすでにマルクスが十分語っています。)
人間の浅知恵は、かくも恐ろしいことを引き起こしてしまうことに注意しなければなりません。

最近の日本で合法的だが不条理なことといえば、非正規社員の処遇問題でしょう。これは過去の私のブログでも何度も触れてきましたし、今や多くの方が言及していますので、ここでは詳しく触れませんが日本社会全体にヘドロのように沈殿するやっかいな問題です。
同じ職場で、勤務時間や日数が異なるだけで、賃金が大きく異なるような制度がまかり通っているのです。最近やっと、賃金面で正規社員との格差是正への動きが見られますが、格差が完全に払拭されたわけではありません。

働く側としても、正規社員より働く時間が少ないのだから処遇格差があって当たり前だという心理になりがちです。その考え方にも一理はあり、心情的にもそうなりやすいのは理解できます。
しかし、たとえば非正規社員が有能で、正規社員を上回る成果を上げていたとしたら格差のある賃金はどうなるのでしょうか。もちろん、成果そのものをどう捉えるかで方向性は違ってきますが、職場にはたいてい定着している評価基準はあるもので、それに照らして矛盾が生じているのにも関わらず処遇が逆転していればそれは不条理ということになります。
具体的には言いませんが、私の身近にもそうした例は少なくありません。しかもそれは民間企業だけでなく、公的機関でも起きています。

なぜこんな不条理がまかり通ってきたのかは、過去に触れてきたので繰り返しませんが、それを受け入れてしまった日本全体にも問題があったと言えるのではないでしょうか。
問題所在の対象を日本全体などと曖昧にいうと、科学主義の方にはお叱りを受けそうですが、社会全体を覆う雰囲気、空気というものは実際に存在し案外馬鹿にできません。
太平洋戦争開戦時の鬼畜米英、最近ではバブルがはじけた頃の規制改革、さらには市場万能主義などもそうした社会全体を覆うものとして位置づけることができます。

これらに共通していることは、行き詰まりから変化を求めることにより発生したある種の偏りです。急激な変化を求めると発生しがちです。藁をもつかむ状況といえばいいでしょうか。困難から脱却するために肩に力が入り過ぎると陥ってしまいがちな現象です。
変化を求めること自体には問題はありませんが、変化の方向性が極端に振れると、偏りすぎると不条理が発生してしまうことに我々は注意しなければなりません。

いつの世も、過ぎたるは及ばざるが如し、なのです。