いきなりですがうどんにコシは必要だと思いますか?
最近は東京でも讃岐うどんのお店が多くみられるようになり、コシのある讃岐うどんの人気が上昇してきています。コシがなければうどんではないと思う人も多いのではないでしょうか。
しかし、コシのないうどんも存在します。
そう、博多うどんや伊勢うどんです。これらになじんでいる方はうどんにコシなんて必要ないと思うのではないでしょうか。また、関東にもコシのないうどんが存在します。水沢うどんにコシがあるかと問われれば、コシはないけれどのどごしがいいと答える人もいるでしょう。武蔵野うどんはコシというより、硬い歯ごたえや小麦粉の味が特徴だと私は思います。
要はうどんにコシは必ずしも必要ではなく、いろいろある特徴の一つとして挙げられるにすぎません。我々はよく何かの特徴を挙げて、その特徴がすべてを語っているような気になってしまいがちですが、うどんのように小麦粉と塩と水で作る、シンプルなものですら、その特徴は千差万別で、どれが優れているとは一概に言えないということがすぐにわかります。
仕事でも全く同じで、営業はこうあるべきだ、人事とはこういうものだ、などと自分の専門についてその特徴などをもとに自分の考えを形成しています。それがないと、拠って立つところがないということになり、判断に迷ったり、行動に一貫性が欠けたりしがちなためです。
我々は様々な事象についてその特徴を捉え、それを是認し、是認の度合いが強いものを記憶し、価値基準としてもつようになります。生きていくためには価値基準はないと困ります。
うどんはコシがなければならない、ということは価値基準の一つとして尊重しなければなりませんが、それが絶対的なものとして君臨し始めると危なくなってきます。
コシのないうどんをうどんとして認めないとか、そんなことは実際にはないでしょうが、コシのないうどんをうどんとして販売してはいけないなどといった全体主義かと思われるような様相を呈してきます。
うどんですから笑い話ですみますが、最近明らかになった前政権における放送法の解釈問題は、うどんはコシがなければならないということを社会に押しつけることと同一の行為です。
しかも質の悪いことに、当人たちは大まじめでそれを論じており、その危険性に気づいていない伏しがあるのです。うどんにコシは必ずしも必要ないと考える人たちをけしからんと非難することの愚かさ、危うさに気づいていないのです。
讃岐うどんしか知らずに、それが唯一絶対だと信じている人達にうどんを作らせてはならないと思います。
私は博多うどんや伊勢うどん、水沢うどんも好きです。ましてや生まれ育った武蔵野のうどんは大好きです。
様々なうどんを食べたことのある人達の意見を無視して、つまり優秀な部下たちの諫言を無視して、恫喝して物事を進めようとするリーダーはいったいどういう社会を作りたかったのでしょうか。
うどんにはコシがなければならないとしか考えない、考えられない人は、物事を深く考えない、あるいは考えたくない人なのでしょう。
好きなものばかり食べていると、そうなってしまうのかもしれません。