能力を測ることは社会では日常的に行われています。
企業では人事考課が代表的ですが、人事考課以外にも様々な形で能力を測り、それに基づいて感謝したり称えたり、あるいは逆に批判、非難したりと能力を測ることを前提にした行為は様々です。そうすることで社会が円滑になることは否定しませんが、実は発揮している能力を測るのは案外難しいのではないでしょうか。
なぜなら、能力とは何か、また、いったいどういう能力をどのようにして測るのか、と具体的に考え始めるとしっかりと説明できなくなってくるからです。

たとえば人事考課において、「顧客に有用な情報提供を行っている」といった目に見える行動なら(有用な情報かどうかはひとまず置いておいて)その回数や頻度により結果を測り評価することは可能でしょう。しかし、「顧客と良好なコミュニケーションをとっている」となったらどのように評価したらいいのかよくわからなくなってきます。

コミュニケーション能力というものは確かに存在するのですが、それを把握しどういうものか説明しようとすると難しいものです。評価する事象と評価する基準が無限に存在し、また、評価する側とされる側で把握している内容が異なることも多く、そのため誤解や対立が生じてしまい、人事評価といった厳格性と公平性が求められる局面では関係性までこじれてしまうことは少なくないのではないでしょうか。
つまり、能力は存在するし、我々が活動するためには欠くべからざるものですが、それを定義し発揮程度を測ろうとすると、実際にはきわめて困難であることに気がつくのです。

そうしたこともあって、コンピテンシー考課や成果主義などといった、発揮している行動やそれにより生じた結果を測るような制度が人事考課において生まれてきたのでしょう。しかしながらこれらが、人事考課の一番の目的である人材育成にどれほど役立っているのかと考えると疑問が残ります。結果を評価しているだけですから、その人の行動をより良くするきっかけにはなるかもしれませんが、親切心に欠ける一歩引いた態度を感じてしまいます。

能力を測ることは難しく、ましてや厳格な基準など存在しません。
その前提にたてば、もっともらしい基準でもっともらしい評価を行い、もっともらしいコメントをすることに逡巡してしまいます。
つまり、企業の人事考課制度は、一方的な限られた視点でのひとつの見方なのであって、正しい能力測定でないことはもちろん、偏った、さらにいえば上司のひとつの見方に過ぎないものであると、割り切った理解をする必要があるでしょう。

能力とは広く深い概念であり、それを正確にとらえること、測ることはできませんが、それをあたかも測れるものと認識してしまっていることに、我々は気づいていなければなりません。