対話とはどういった行為をいうのでしょうか。
それは「わたしたちに馴染みのない、特異なコミュニケーション」であると言ったのは「対話の技法」を著した納富信留氏です。「対話の技法」は対話について明快に論じている良著です。対話について関心のある方にはおすすめの一冊です。
納富氏は対話の語源から対話を説明してくれています。
それによると、対話は英語でDialogueですから、もともとは「ディア(相互)+ロゴス(論理)」です。つまり、対話とは人々が相互に言葉を交わすことにより何かを生み出すことをいうのです。
おそらく明治期でしょうが、Dialogueを対話と訳した人は語源まで遡って訳したのですね。会話と対話の違いを表意文字である漢字でしっかりと区別しています。
対話で気をつけなければならないのは、「対」ということです。「対」は対等という意味があります。
上下関係や対立関係などの特別な関係がなく、お互いに平等で「対する」ことが求められているということです。
社会では初対面を除いて、通常は何らかの関係で合い対しており、平等であることは少ないでしょう。
会社や組織では上下関係や相互支援関係など何らかの力学で関係が存在しています。また、広く社会を見渡すと、何かを与える人とそれを受け取る人の関係(対価のあるなしに関わらず)で溢れているのではないでしょうか。
つまり、純粋に対等、平等な関係は案外少ないのが現実です。
そうした中で我々は話し合いを行います。社会では無数の様々な話し合いが行われています。
そして、話し合いは大概難しい状況のなかで行われます。難しい状況だからこそ話し合ってそうした状況から切り抜けようとするのです。
その際に、お互いを尊重し合い、対等に話し合うことは少ないと思うのは私だけでしょうか。
本来の「対話」は納富氏のいうように社会ではかなり少ないと思います。
対等、平等な状況のもと、「思ったこと」や「感じたこと」について言葉を交わすのが対話ですが、上下や利害といった所与の関係に影響され、限定的な「思ったこと」や「感じたこと」の表明になってしまっているのではないでしょうか。
それでは対話の本来の目的を達成することはできません。
対等に平等に言葉を交わすことで時には「痛み」を生じることがあるでしょう。そのため、我々はそれを避けようとして所与の関係を大切にしがちです。
そうした態度は自分たちや自分を守るには必要と考えられますが、それにより対話がなくなり、単なる利害調整となってしまいます。
難しい状況を切り抜け、新しい考え方、方法、価値観のもと新たな一歩を踏み出すためには対話が必要で、そこには会話や通常の話し合いとは異なる、何らかの「痛み」が生じることを覚悟して臨む姿勢が求められているのでしょう。
日常生活では、残念ながら対話はなかなか存在しないコミュニケーションです。
私たちに必要なのは「対話のトレーニング」なのです。