10年以上前の話ですが、書店で何気なく目に入った「ハーバードからの贈り物」デイジー・ウェイドマン著(2004)を読んだ私は非常に感銘を受けました。そこには、ハーバードで教鞭をとる教授陣の最後の授業がそのまま収められていて、内容はもとよりその語り口に時の経つのを忘れてしばらくその場で読み進めてしまったのです。
教授自身が経験した様々なエピソードで溢れており、その大半は困難な状況から何を学んだかでした。
時を忘れて読み入ってしまった理由は、ハーバードの教授(様々な分野の専門家ですから、気難しくお堅い、近づき難いという印象をもっていました)が、人間的な語り口をもって、すなわち、怒り、悲しみ、喜び、不安、安堵などの感情を包み隠さずに語っていたことが、私を惹きつけたのだと思います。

語りには語り手の感情が溢れています。聞き手はそれに共感し、自分を知ることができます。
また、どうなっていくのだろうと展開への期待や興味が生まれます。つまり、客観的な事実の羅列を読むだけではなかなか得られない、心で受け止める、自分自身で受け止める感覚が芽生えます。語りを聞くことで何かを感じる、染み入る、感動するといったことが起きるのです。
古来より語りが重視されてきたのはこういったところに理由があるのでしょう。

「“物語” は思考の根本的な道具である、理性的な能力は物語に依存している。物語は将来を見通し、予測し、計画を立て、説明するために最も大切な方法である。……私たちの経験や知識、思考の大部分は物語という形で構成されているのだ。」(マーク・ターナー 認知科学者 ダニエル・ピンク著「ハイ・コンセプト」2006より)
「観念的に言えば、人間は論理を理解するようにできていない。人間は物語を理解するようにできているのだ。」(ロジャー・C・シャンク 認知科学者 ダニエル・ピンク著「ハイ・コンセプト」2006より)
科学者が物語の重要性を語るのは不思議な感じがしますが、記憶は物語性をもってされていることが多く、我々の能力は物語に依存しているという考えには共感します。しかし、残念ながらビジネスの現場では物語の力は軽視されています。論理が溢れているのです。
わかりやすさ、説明のしやすさ、納得感が得られやすいなどの理由でしょうが、論理しか認めない、論理優先の考え方には疑問を感じます。論理は重要ですが、物語を軽視する理由にはなりません。
根拠がはっきりしない論理的ではない“物語”など考える暇があったら論理的に分析しろ、論理的に考えろ、と叱咤されることが少なくないように思います。しかし、物語は人間がもつ能力に見合った理解方法であり表現方法であることを忘れてはならないのです。

また、物語のもつ別の力として、“リストーリー”があります。自分のストーリーを語り、聞き手の問いかけに応じることでストーリーを再構成し、自己変容につなげるのです。心理療法のひとつである“ナラティブ・セラピー”では、クライアントが自分の辛く悲しい経験を語り、それを再構成し新しい概念を創出することで人生を見直す効果をねらっています。
語ることで新たな意味づけや価値に気づいたり、聞き手からの反応や意見により違った視点を得たり、内容を深めたりすることができるのです。

語りの力を見直すことが、現代の我々には求められています。