小泉内閣によって構造改革が一挙に進められ、特に派遣法の規制緩和のなかで非正規社員の雇用が拡大され、同じ仕事をしているのに処遇が大きく異なるような、いわゆる経済的格差を生む土壌を作ったとの声は大きいように思います。
そのような意見に真っ向から反対するわけではありませんが、事実を追っていくと、単純に小泉内閣の責任ではないことがわかります。当時は、日本経済にとって構造改革が不可欠なことが次第に国民の間に認識されるようになっていました。構造改革を推進するリーダーを捜し求めているなかで、小泉氏がその流れに乗ったというのが実状ではないでしょうか。
バブル崩壊後の1993 年に非自民連立の細川内閣が成立しました。
経済的には急速な円高にともなう輸出需要の停滞があり、それが経済的規制の原則撤廃に至る世論を喚起したことは間違いありません。
細川内閣では、いわゆる平岩レポートで、「経済的規制の原則撤廃を通じて、市場開放と競争秩序の確立」との原則が打ち出され、続く村山内閣でも、「自己責任、市場メカニズムが働くよう、規制緩和を進める」ことが主張され、その後の橋本内閣でいわゆる六大改革(行政改革、財政構造改革、社会保障構造改革、経済構造改革、金融システム改革、教育改革)が始まり、小泉内閣に至ります。
これらの流れはそれまでの社会システムに経済停滞の原因があるとの考えから発生しており、一定の根拠はあるでしょう。
しかし、社会は複雑なシステムであり、様々な要素がお互いに支え合っており、一見不合理に思える要素を単純に取り除くことが他の要素に好ましくない影響を及ぼすことがあります。
「規制緩和、市場メカニズム」を万能視することが危険であることは、社会が複雑なことを考えれば容易に想像できます。
わかりやすい例として、市場にすべてを委ねることは過度な競争を助長することがあります。効率性や合理性を過度に追及する素地を生むのです。その結果、商品やサービスの質を低下させます。そして顧客離れが起こり、賃金が上がらず、従業員のモラルと労働の質の低下も懸念されます。
何よりも、結果のためには手段を択ばない風潮が高まり、不正や犯罪を誘発しやすい環境になります。こうしたことは優良企業と言われてきた企業でも実際に起きています。利益中心主義になり、拝金主義に陥ってしまうのです。
市場に任せればすべてうまくいく、そのためには規制緩和は不可欠だといったユートピア的な考えでは社会の健全さは保てないのです。
市場万能主義が陥っているのは、手段と目的のはき違えです。市場とは経済活動の手段であって目的ではありません。それを最高の装置であるかのように、最終ゴール(目的)のような感覚に陥っているのが市場万能主義です。
社会をより良いものにするために構造改革は必要でしょう。しかし、構造改革とは市場化ではなく、参加する人の役割や責任の内容を変化させ、新たな価値を生むための環境を再創造することです。
そのためには関係する人たち、経営者だけでなく従業員や規制当局者も含めて議論を尽くし、価値創造の場を作り上げることが求められるのではないでしょうか。