【ブログ更新】ラグビー日本代表にみるメルティングポット

ラグビーワールドカップでの日本の奇跡的な勝利に酔いしれた人は多かったのではないかと思う。ラグビーをよく知らない人でも、日本の粘り強い戦いに感動し、ラグビーの楽しさに魅了されたのではないだろうか。
※日本ラグビーフットボール協会@JRFUMedia


試合を見て気づかれたと思うが、日本チームには外国出身者が多く、あれで日本代表なのかと疑問を持つ方も多いはずだ。多くの場合、国の代表といえば国籍主義で、移民の少ない日本では肌や目の色が違う外国人が代表になるケースは珍しいと考えるのが普通かもしれない。

しかし、ラグビーでは国籍だけでなく、両親や祖父母の出身国、一定期間の居住などの条件を満たせば国の代表になれる。今回の日本チームにもそういった背景をもった選手が3分の1存在する。彼らは出生国こそ様々であるが、精神的には日本を代表して国の名誉をかけて戦っている。日本語も堪能で、自分を成長させてくれた日本に恩義を感じ、日本を愛している選手が多い。心は日本人なのである。

現実の生活でも、自分の周りに外国人がいて何らかの関わりがある方はもはや少なくないと思う。社会の実態に照らして考えれば、国の代表を国籍で縛ることは現実的ではなくなりつつある。

国籍主義は、国家を議論する際には必要な概念かもしれないが、日常生活では国籍を意識することはほとんどないし、国籍云々をスポーツに持ち込むことは肉体的精神的に楽しむことが目的であるスポーツの開放性にも反する。

グローバル化のなかで社会は今後ますますメルティングポット化し、そのなかで地域性や民族性の特色を活かしながら交流的漸次的に文化は形成されていくのだと思う。(そもそも文化とはそういうものだ。大陸の端にある日本の文化は大陸から行きついた様々な文化が交流してできた組成性を強くもっている。)そう考えればラグビーの国代表に肌や目の色の違いがあって当然だし、それがむしろ進化を促す好要素でもある。
ラグビーの特性からも思い至るところがある。One for all, All for oneという言葉に表れているように、一つのボールを前に投げることなく皆が協力して後ろに投げながら前進させていく。相手を妨害する行為、ずるい行為、危険な行為はすべて反則である。人間がもつ闘争心を自重しながら相手をリスペクトする姿勢が強く求められる。それは体と体のぶつかり合いの中で行う知力と体力のスポーツであり、その精神性は徳育の色彩を帯びている。国籍にこだわらないのは植民地対抗を活性化するため、あるいはユニオン(協会)対抗から発したという説が有力だが、そこにはOne for all, All for one、リスペクトという価値を国籍にこだわらず近くの仲間と高め合いたいという普遍的な感情が影響しているように思えるのである。

※決勝トライを決めるヘスケス(19日、英国ブライトン)=共同
20150920
南ア戦の逆転劇は、10回以上の連続攻撃で皆がボールをつなぎ、最後はカーン・へスケス選手、日本に来て6年目、福岡宗像の海岸とうどんを愛する素敵なキウイ(ニュージーランド出身)がボールを胸に抱えてタッチダウン、皆の気持ちを全身で受け止めたトライであった。