bossclubブログ

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このBlogでは日々感じたことを不定期につぶやきます。合同会社ボスクラブのHPはこちらhttp://www.bossclub.info

26年前は当時イケイケの成長企業㈱リクルートに勤めておりました!
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1963年7月29日兵庫県小野市大島町に生ま れる

1978年兵庫立小野高等学校普通科入学

1982年甲南大学法学部入学

1986年甲南大学法学部卒業
㈱リクルートへ入社

求人情報誌Bing・とらばーゆを営業

値引きしない営業マン退社までずっと日本一と全国求人広告賞受賞
1988年有限会社フリーステージ設立

1995年に就職活動のバイブル本「就職のツボ」を発刊。大学生の就職活動の無料相 談を引き受ける。「学生就職資料情報センター」をOPENし、就職活動に苦戦する多くの大学生の支持を集める。

2000年5月㈱ベストサイト設立

2008年より大学生のコミュニケーション能力向上を目的とした学生が参加可能な異業種交流会 「BossClub」をスタート。

2011年3月一般社団法人ほめ日記協会設立

2015年9月1日合同会社ボスクラブ設立
http://www.bossclub.info

Amebaでブログを始めよう!
この前知人がなでしこのサッカーの試合を一緒に見てたとき「君が代は暗い歌」と言ったので少しむかついて「君が代の歌詞の意味知ってる?」「知らんからそんなこというねん!」と言うことになったので改めて解説しときます!天皇陛下を讃える戦争を鼓舞する歌だ!と勘違いしたことを言う方々もいらっしゃいますが一番下のイギリスのほうが女王陛下を讃えていると僕は思うのですが皆さんいかがですか?
君が代は 千代に八千代に
さざれ石の 巌となりて
苔のむすまで
数ある解釈がありますが、どの解釈でも「君が代」は平和を願う歌です!
現代風に訳したらこんな歌詞になります

私たち(天皇)の世が時代を超えて
千年、万年と永遠に
結束し、協力し合い
固い絆を結びついでいこう
改めて言いますが「君が代」は平和を願う歌です!この短い歌詞の中にこれだけの意味をもたせることができる日本語は素晴らしい!
ちなみに多くの日本人がかっこいいと言っているアメリカの国家の和訳はこちら・・・僕は日本の国家のほうがどの国よりも素敵だと自負しております!
「星条旗(米国国歌)」和訳
1.
おお、見えるだろうか、
夜明けの薄明かりの中
我々は誇り高く声高に叫ぶ
危難の中、城壁の上に
雄々しくひるがえる
太き縞に輝く星々を我々は目にした
砲弾が赤く光を放ち宙で炸裂する中
我等の旗は夜通し翻っていた
ああ、星条旗はまだたなびいているか?
自由の地 勇者の故郷の上に
2.
濃い霧の岸辺にかすかに見える
恐れおののき息をひそめる敵の軍勢が
切り立つ崖の向こうで
気まぐれに吹く微風に見え隠れする
朝日を受け栄光に満ちて輝きはためく
星条旗よ、長きに渡り翻らん
自由の地 勇者の故郷の上に
3.
戦争による破壊と混乱を
自慢げに断言した奴等は何処へ
家も国もこれ以上我々を見捨てはしない
彼等の邪悪な足跡は
彼等自らの血であがなわれたのだ
敗走の恐怖と死の闇の前では
どんな慰めも傭兵や奴隷達の救いたりえず
勝利の歓喜の中、星条旗は翻る
自由の地 勇者の故郷の上に
4. 愛する者を戦争の荒廃から
絶えず守り続ける国民であれ
天に救われた土地が
勝利と平和で祝福されんことを願わん
国家を創造し守りたもうた力を讃えよ
肝に銘せよ 我々の大義とモットーは
「我等の信頼は神の中に有る」ということを
勝利の歓喜の中、星条旗は翻る
自由の地 勇者の故郷の上に
ついでにフランス国歌和訳はこちら(ちなみに7番まであります)
祖国の子どもたちよ、栄光の日がやってきた!
我らに向かって、暴君の血塗られた軍旗がかかげられた
血塗られた軍旗がかかげられた
どう猛な兵士たちが、野原でうごめいているのが聞こえるか?
子どもや妻たちの首をかっ切るために、
やつらは我々の元へやってきているのだ!
武器をとれ、市民たちよ
自らの軍を組織せよ
前進しよう、前進しよう!
我らの田畑に、汚れた血を飲み込ませてやるために!
イギリス国歌和訳はこちら
1.
神よ我らが慈悲深き
女王陛下を守りたまえ
我等が高貴なる女王陛下の永らえんことを
神よ我らが女王陛下を守りたまえ
勝利・幸福そして栄光を捧げよ
御代の永らえんことを
神よ我らが女王陛下を守りたまえ
2.
おお主よ、我等が神は立ち上がり
敵を蹴散らし、潰走させ、
姑息な罠をも打ち破りたもうた
我等の望みは汝にあり
神よ我らを守りたまえ
3.
女王に注がれし天賦の才能
御代の永らえんことを
我等の原理を擁護し
我等に大義を与えたまえ
心を込めて謳わん
神よ我らが女王陛下を守りたまえ
4.
我が国のみならず
神の御慈悲は陸を渡り
主は世界中の国々に知らしめる
人類は一つの兄弟であり
家族であるべきことを
5.
伏兵や暗殺者らの手から
神よ我らが女王陛下を守りたまえ
国家のため、汝の御手により
我等が母、王妃そして友
神よ我らが女王陛下を守りたまえ
6.
ウェイド元帥の勝利が
主の強大なる助力によりもたらされんことを
彼が反乱を鎮めんことを願わん
激流の如きスコットランドの反乱を打ち破らん
神よ我等が国王を救いたまえ!
スコットランドの反乱?イギリスがむちゃくちゃしてきたから立ち上がっただけでは?・・・
ボスクラブ1月度日程

1/4(月)朝会7:00~9:00ブライトンベル御堂筋店
1/5(火)ランチ会 11:30~13:00ブライトンベル御堂筋店
1/6(水)朝会 7:00~9:00ブライトンベル御堂筋店
1/6(水)会議 18:00~20:00梅田センタービル6階
1/6(水)懇親会 20:30~22:30エレファントカフェ茶屋町
1/12(火)ランチ会 11:30~13:00ブライトンベル御堂筋店
1/13(水)朝会 7:00~9:00ブライトンベル御堂筋店
1/14(木)新年会 18:00~エレファントカフェ茶屋町
1/18(月)朝会 7:00~9:00ブライトンベル御堂筋店
1/19(火)ランチ会 11:30~13:00ブライトンベル御堂筋店
1/20(水)朝会 7:00~9:00ブライトンベル御堂筋店
1/20(水)会議 18:00~20:00梅田センタービル6階
1/20(水)懇親会 20:30~22:30エレファントカフェ茶屋町
1/25(月)朝会 7:00~9:00ブライトンベル御堂筋店
1/26(火)ランチ会 11:30~13:00ブライトンベル御堂筋店
1/27(水)朝会 7:00~9:00ブライトンベル御堂筋店

http://densuke.biz/list?cd=YnUCPfJHVpLuywTs


山岡鉄舟 は弱冠15歳の時に「修身二十則」という自らへの誓いを立て、生涯守り通したと言う。15歳と言わずともここまでの修学ができている日本人が何人いることか・・・

 『修身二十則』

一, 嘘を言うべからず
一, 君の御恩忘れるべからず
一, 父母の御恩忘れるべからず
一, 師の御恩忘れるべからず
一, 人の御恩忘れるべからず
一, 神仏ならびに長者を粗末にすべからず
一, 幼者を侮るべからず
一, 己に心よからず事
  他人に求めるべからず
一, 腹をたつるは道にあらず
一, 何事も不幸を喜ぶべからず
一, 力の及ぶ限りは善き方に尽くすべし
一, 他を顧して自分の善ばかりするべからず
一, 食する度に農業の艱難をおもうべし
  草木土石にても粗末にすべからず
一, 殊更に着物を飾り
  あるいはうわべをつくろう
  ものは心濁りあるものと心得べし
一, 礼儀をみだるべからず
一, 何時何人に接するも客人に接するよう
  心得べし
一, 己の知らざることは何人にてもならうべし
一, 名利のため学問技芸すべからず
一, 人にはすべて能不能あり、
  いちがいに人を捨て、あるいは笑うべからず
一, 己の善行を誇り人に知らしむべからず
  すべて我心に努むるべし  




山岡鉄舟


鉄舟言行録21ページ目


山岡 鉄舟
日本の武士(幕臣)、政治家、思想家。爵位は子爵。剣・禅・書の達人としても
知られる。 一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖。
勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される。
単身で官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)に辿り着き、西郷と面会。
勝海舟と西郷隆盛の会談を実現させた江戸無血開城の立役者。
(最初、海舟は高橋泥舟を使者にしようとしたが、彼は慶喜警護から離れることが
 できなかった。
 そこで泥舟の推薦により、彼の義弟である鉄舟に白羽の矢が立ったようだ。)


「欲深き人の心と降る雪は、積もるにつれて道を失う。」



高橋泥舟
たかはしでいしゅう

幕末の三舟 (3)
出身
徳川幕府
生年月日
1835年3月15日
没年月日
1903年2月13日
年齢
満67歳没
泥舟は後年の号、若いころの号は忍歳。いわゆる「幕末の三舟」のひとり。(ほか、勝海舟、義弟である山岡鉄舟)。生家の山岡家は槍の自得院流の(忍心流)の名家で、泥舟みずからも槍を修行し、神業に達したと評される。 幕臣として節義を通す姿勢には信頼が厚く、義弟・山岡鉄舟が務めた西郷隆盛との駿府会談はもともとは勝海舟に推薦された泥舟が担当する予定だった。 明治の廃藩置県後は官職には就かず隠棲、書画骨董の鑑定などでして生涯を終える

教科書に記述すべき資料
http://buzz-bomber.com/japanism/archives/564

「ルーズベルトニ与フル書」

この「書」は、市丸中将の死後、
「死に臨んだ日本の一提督の米国大統領宛の手紙」
と題されて、米国の各大手新聞で、その全文が紹介されました。
また、戦後ベストセラーになったジョン・トーランドの「昇る太陽-日本帝国滅亡史」でも紹介され、そして全米で大絶賛されています。
「書」はいまも、ナポリスの海軍兵学校の博物館に展示されています。
市丸中将は、硫黄島の戦いで散華された方です。

ルーズベルトに与うる書【口語訳】

日本海軍市丸海軍少将が、フランクリン・ルーズベルト君に、この手紙を送ります。
私はいま、この硫黄島での戦いを終わらせるにあたり、一言あなたに告げたいのです。

日本がペリー提督の下田入港を機として、世界と広く国交を結ぶようになって約百年、この間、日本国の歩みとは難儀を極め、自らが望んでいるわけでもないのに、日清、日露、第一次世界大戦、満州事変、支那事変を経て、不幸なことに貴国と交戦するに至りました。

これについてあなたがたは、日本人は好戦的であるとか、これは黄色人種の禍いである、あるいは日本の軍閥の専断等としています。
けれどそれは、思いもかけない的外れなものといわざるをえません。

あなたは、真珠湾の不意打ちを対日戦争開戦の唯一つの宣伝材料としていますが、日本が自滅から逃れるため、このような戦争を始めるところまで追い詰めらた事情は、あなた自身が最もよく知っているところです。

おそれ多くも日本の天皇は、皇祖皇宗建国の大詔に明らかなように、養正(正義)、重暉(明智)、積慶(仁慈)を三綱とする八紘一宇という言葉で表現される国家統治計画に基づき、地球上のあらゆる人々はその自らの分に従ってそれぞれの郷土でむつまじく暮らし、恒久的な世界平和の確立を唯一の念願とされているに他なりません。

このことはかつて、

 四方の海
 皆はらからと 思ふ世に
 など波風の 立ちさわぐらむ

という明治天皇の御製(日露戦争中御製)が、あなたの叔父であるセオドア・ルーズベルト閣下の感嘆を招いたことで、あなたもまた良く知っていることです。

わたしたち日本人にはいろいろな階級の人がいます。
けれどわたしたち日本人は、さまざまな職業につきながら、この天業を助けるために生きています。
わたしたち軍人もまた、干戈(かんか)をもって、この天業を広く推し進める助けをさせて頂いています。

わたしたちはいま、豊富な物量をたのみとした貴下の空軍の爆撃や、艦砲射撃のもと、外形的には圧倒されていますが、精神的には充実し、心地はますます明朗で歓喜に溢れています。

なぜならそれは、天業を助ける信念に燃える日本国民の共通の心理だからです。
けれどその心理は、あなたやチャーチル殿には理解できないかもしれません。
わたしたちは、そんなあなた方の心の弱さを悲しく思い、一言したいのです。

あなた方のすることは、白人、とくにアングロサクソンによって世界の利益を独り占めにしようとし、有色人種をもって、その野望の前に奴隷としようとするものに他なりません。

そのためにあなたがたは、奸策もって有色人種を騙し、いわゆる「悪意ある善政」によって彼らから考える力を奪い、無力にしようとしてきました。

近世になって、日本があなた方の野望に抵抗して、有色人種、ことに東洋民族をして、あなた方の束縛から解放しようとすると、あなた方は日本の真意を少しも理解しようとはせず、ひたすら日本を有害な存在であるとして、かつては友邦であったはずの日本人を野蛮人として、公然と日本人種の絶滅を口にするようになりました。
それは、あなたがたの神の意向に叶うものなのですか?

大東亜戦争によって、いわゆる大東亜共栄圏が成立すれば、それぞれの民族が善政を謳歌します。
あなた方がこれを破壊さえしなければ、全世界が、恒久的平和を招くことができる。
それは決して遠い未来のことではないのです。

あなた方白人はすでに充分な繁栄を遂げているではありませんか。
数百年来あなた方の搾取から逃れようとしてきた哀れな人類の希望の芽を、どうしてあなたがたは若葉のうちに摘み取ってしまおうとするのでしょうか。

ただ東洋のものを東洋に返すということに過ぎないではありませんか。
あなたはどうして、そうも貪欲で狭量なのでしょうか。

大東亜共栄圏の存在は、いささかもあなた方の存在を否定しません。
むしろ、世界平和の一翼として、世界人類の安寧幸福を保障するものなのです。
日本天皇の神意は、その外にはない。
たったそれだけのことを、あなたに理解する雅量を示してもらいたいと、わたしたちは希望しているにすぎないのです。

ひるがえって欧州の情勢をみても、相互の無理解による人類の闘争が、どれだけ悲惨なものか、痛嘆せざるを得ません。

今ここでヒトラー総統の行動についての是非を云々することは慎みますが、彼が第二次世界大戦を引き起こした原因は、一次大戦終結に際して、その開戦の責任一切を敗戦国であるドイツ一国に被せ、極端な圧迫をするあなた方の戦後処置に対する反動であることは看過すことのできない事実です。

あなたがたが善戦してヒトラーを倒したとしても、その後、どうやってスターリンを首領とするソビエトと協調するおつもりなのですか?

およそ世界が強者の独占するものであるならば、その闘争は永遠に繰り返され、いつまでたっても世界の人類に安寧幸福の日は来ることはありません。

あなた方は今、世界制覇の野望を一応は実現しようとしています。
あなた方はきっと、得意になっていることでしょう。

けれど、あなたの先輩であるウィルソン大統領は、そういった得意の絶頂の時に失脚したのです。
願わくば、私の言外の意を汲んでいただき、その轍を踏むことがないようにしていただきたいと願います。

市丸海軍少将


韓国人こそ歴史に学べ!ケントギルバート
ケント・ギルバート(以下、ケント):私はもう日本に40年近く住んでいますが、この国には本当に素晴らしいところがたくさんあります。日本は早く目覚めなければならないのに、一方で、その状態を利用して、近隣諸国が好き放題にやっている。とくに韓国の論理はメチャクチャで、幼稚なのに、日本はやられっ放しという姿をみて、「いい加減にしろ、あなたたちに何をいう権利があるのだ」と思いました。

―メチャクチャといえば、今年3月5日、マーク・リッパート駐韓米大使が、突然男に刃物で襲われるという事件が発生しました。
ケント:アメリカ人の多くはこの事件をみて、韓国がまだまだ国家として、まともな治安維持能力さえもたないことを痛感し「韓国はまだ一人前ではない」と考えたのです。

―安重根は刑務所の日本人看守や日本の民族主義者らから支持されていました。
ケント:そもそも安重根は明治天皇に対して大きな敬意を抱いていました。そんな安が伊藤博文を襲ったのは、「伊藤が天皇陛下の意思に反した政治を行なう大逆賊である」と考えたことが最大の理由です。
また、安が日本人の看守や、一部の民族主義者のあいだで支持された理由は、安自身が欧米列強の有色人種に対する帝国主義的植民地支配に異議を唱えていたという点にもあります。天皇に敬意を示し、欧米の植民地にされたアジアを解放しなければならないとする安重根の思想は、やがて日本が提起することになった「八紘一宇」や「大東亜共栄圏」の思想と同じです。
つまり、安重根を英雄として奉ることは、いまの韓国人が忌み嫌っているはずの、戦前の日本の政治思想をそのまま敬っていることにほかなりません。歴史を知らない韓国人は、ここでもまた論理的に自爆しているのです。

韓国人がしっかりと歴史を学ぶことができないのは、ある意味で仕方ないともいえます。なぜなら、彼らは「漢字が読めない」からです。戦後、日本統治時代の業績をすべて否定するという韓国ナショナリズムが盛り上がった結果、韓国政府は漢字の使用を廃止し、ハングル文字のみの使用を推進しました。その結果、今日ほとんどの韓国人が漢字を理解できなくなりました。

日韓併合に際して日本政府は朝鮮人の教養レベルのあまりの低さに驚きます。そこで、朝鮮人の識字率向上のために各地で新たに学校を建設しました(20世紀初頭の小学校は40校程度→40年ほどで1000校以上増加)。

長いあいだ、旧態依然とした時代遅れの「中華思想」のなかで呑気に生きていた韓国・中国人は日本人が必死になって努力したおかげで今日の近代的な生活を享受しているのです。そのことを忘れるな、といいたい。

私が最も指摘したい日本の業績の1つは、李氏朝鮮時代から厳しい階級格差と差別に何百年間も苦しんでいた人々の「身分解放」を日本政府が行なった事実です。日本は韓国人のために、本当に正しく立派なことをしたと思います。

両班階級は、汗をかくような労働を嫌悪し、「箸と本より重いものは持たない」ことを誇りにしました。自分より下層の者を徹底的にいじめ、金品を差し出させ、言うことを聞かなければ自宅に連れ帰って拷問しても、罪に問われない特権を何百年も維持したそうです。
一方、「武士は食わねど高楊枝」で言い表される「清貧」と「誇り」を維持する日本の武士は、庶民の期待と憧れを一身に受けました。同じ支配者層でも庶民の恨みと憎悪の対象だった朝鮮の両班とは真逆です。

日本政府による朝鮮人の「身分解放」は韓国近代化の第一歩だったことは疑う余地のない歴史的事実です。今日の韓国人はこの点だけでも、日本に大恩があるはずですが、それに対する感謝の言葉は聞いたことがありません。

ー水豊ダムは完成した1944年当時、発電規模は世界最大級を誇りました。
ケント:じつは朝鮮戦争中、アメリカ軍はこのダムと「喧嘩」をしているのです。当時アメリカ軍は、北朝鮮に対する電力供給を遮断する作戦を行なっていましたが、その攻撃目標の一つがこの水豊ダムでした。アメリカ空軍は何度もダムを空爆し、最後には大型の魚雷を何本も撃ち込みましたが、それでもダムが決壊することはなかった。その後もほとんど改修を加えられることなく、今日もなお当時と変わらず発電を継続し、北朝鮮最大の電力源の一つとなっています。メイド・イン・ジャパンの底力は、当時から健在だったのです。

このように朝鮮半島の発展のために努力した日本を、いまの韓国政府とマスコミ、そして真実の歴史を調べもしない多くの韓国人が口汚く罵っている。まさに「恩知らず」です。ちなみに外国人による日本人の評価は、「正直」「誠実」「親切」「勤勉」「冷静」「寛容」「トラブルを起こさない」などですが、韓国人はこの真逆です。

韓国は戦後一貫して自国を「戦勝国の一員」だと主張し、「連合国側だった」と自己洗脳する努力を重ねてきました。しかし存在しなかった国がどうして「戦勝国」になれますか。

法律論でいえば、日本は韓国に対して、オランダがインドネシアに対して行なったように、過去に投じたインフラ整備費用を請求できましたが、当時の日本政府は請求権をすべて放棄したのです。日本は日韓基本条約において、当時の韓国政府の国家予算の2倍以上の金を支払ったばかりか、莫大な金を投じて朝鮮半島に整備した近代的インフラなどをすべて無償で贈与し、韓国の以後の飛躍的な発展を大いに助けたのです。
そればかりではありません。1997年に発生した韓国通貨危機や、2006年のウォン高騰に対する経済支援、そして08年のリーマン・ショック後の混乱を軽減するための支援、02年の日韓ワールドカップのときはスタジアム建設費用も提供しています。
にもかかわらず、これまでに韓国に貸し付けたお金はまだ一部しか返還されていません。

日本人は忍耐強いですが、じつは戦いはもっと強い。いったん怒ると一刀両断で一気にカタを付けるか、相討ち覚悟で徹底的にやる。だから、誰か韓国人に教えたほうがいい。「いい加減にしないと、死ぬほど痛い目に遭うよ」と。

本当は放っておくのが一番です。
日本は韓国と国交がなくなってもじつは何も困らない。日本に見捨てられたら生きていけないのは韓国のほうです。(2015.5.31BLOGOS)
中国は日本に感謝し、靖国に参拝せよ
黄文雄 評論家
内戦停止、農民・飢饉の救済、列強による分割の阻止…どれをとっても中国は
日本に感謝こそすれ、批判すべき筋合いはない。侵略?冗談ではない。愚かな
民族を隣人に持った不幸な日本に対して、謝罪すべきは中国である。
台湾での歴史認識
多くの日本人は、中国に対する感情はともかく、 過去の「侵略」については謙虚に謝罪し、反省
しなくてはならないと考えているようだ。
最近では日米戦争については日本の自衛戦争だったとの認識がいくらか広まりつつあるが、こ
と日中戦争に関しては、あくまで「侵略戦争だった」との認識があり、どうしても贖罪
しょくざい
意識を拭
ぬ ぐ

ない。だが日本および日本人は、いったい日中戦争の何について反省しなければならないというの
だろうか。
日本軍は中国やアジア各国に対して侵略、虐殺、暴行、掠奪
りゃくだつ
を働いたというのが中国側の主張
であると同時に、戦後日本人の一般的な歴史認識でもあるが、台湾では違う。 これは私自身、 幼
い頃から聞かされてきたことでもあるが、たいていの知日派知識人は、「日本は悪くなかった。 悪
かったことといえば戦争に負けたことだった」と考えている。
当時は列強の時代だった。「春秋に義戦なし」というが、この時代には弱肉強食こそが国際社会
の法則だった。 弱者は「悪」とみなされ、国家の進取、覚醒、自覚が時代の精神とされていた。
「侵略」は第二次世界大戦まではむしろ美徳とされていたのである。しかし、そのような時代に
あっても、日本だけは「東亜の解放」というあまりに道義的な理念、目標を掲げて戦った。白人
による世界的規模の植民地支配の時代における近代日本の最大の国家的課題は、いかに欧米列強
の植民地支配を免
まぬか
れるかにあった。祖国防衛を図るうえで、もっとも望ましいのは欧米支配の
桎梏
し っ こ く
[手かせ足かせ]からアジアが解放されることだった。
この「東亜の解放」の理念は終戦後、まず連合国に否定された。 それは当然である。欧米の植
民地勢力にとって、これほど許容できないものはなかったからだ。そして東京裁判で「東亜の解
放」とは「東亜への侵略」を正当化するための宣伝文旬だったと断罪された。これを日本人は鵜
呑みにしてそのまま今日に至っている。
だが台湾人は幸い、東京裁判史観に染まることがなかった。だから日本の戦争が、まさしくア
ジアのレコンキスタ(失地回復)であり、それによって欧米植民地勢力が駆逐された史実を素直に
受け止め、「日本が負けたことが悪かった」というのである。
歴史は「勝者」のもの
中国の日本に対する歴史への干渉は、日本の歴史教科書の問題だけでなく、政治、外交にまで
発展している。 それは中国にはっきり「ノー」と言えない日本の自業自得だが、外国に対する中
国の歴史観の押しつけは、そもそも歴史観の独善性のなせる業である。他者への押しつけを前提
としている歴史観とでも言えばいいだろうか。 それはまた、中国人の民族性をストレートに反映
したものでもある。
2
中国には『史記』『漢書』から『元史』『明史』に至る正史(歴代朝廷が編纂
へ ん さ ん
した正式な歴史書)
というものがある。これは易姓革命(天子の徳が衰えると天命も革
あらた
まり、他の有徳者が新たに王
朝を創始するという思想)によって天下を掌握した新王朝が自らの正統性を示すため、なぜ前王朝
から政権を纂奪
さ ん だ っ
する必要があったかを記すものだ。つまり中国人からすれば、歴史とは勝者が書
き、敗者がそれを受け入れ、学ぶべきものなのである。それが中国における「歴史の鉄則」なのだ。
日中戦争の真実は、それぞれ日本・英米・ソ連の後押しを受けた南京(江兆銘派国民党)・重慶(蒋
介石派国民党)・延安(共産党)三政府の三つ巴の内戦であったが、たとえば中国共産党は、国共内
戦で敗れた国民党は独自に歴史を語ってはならないと考えている。
「八年抗戦」(日中戟争)の中国側の主役は国民党軍であり、共産党軍などは脇役であった。いや、
脇役というよりむしろ、日本軍との対決は国民党に任せ、自分たちはできるだけ真正面からの戦
闘を回避し、来るべき国民党との戦いに備えて拠点作りにいそしんでいたというのが真実だ。だ
が戦後、天下を取った共産党は、「八年抗戦」について、あたかも共産党が人民を指導し、勝利し
た解放戦争であるかのように事実を捻じ曲げた。国民党の活躍にはできるだけ触れず「中国共産
党がなければ今日の中国はなかった」と言っているのである。中国が日中戦争の勝利者である以
上、敗者である日本は「”歴史の鉄則”を受け入れなくてはならない。日中戦争をどう描こうと
中国の勝手であり、日本人はそれに従っていればいい」と考えている。
歴史観の一方的な押しつけも、日本に対する当然の権利であると考え、内政干渉だという意識
はない。 むしろ、それを批判する日本人は不見識な輩
やから
であり、中国の権利を蹂躙
じゅうりん
していると怒
るのである。「中国が創作した歴史だけを勉強すればいい。勝手にそれに反する歴史教科書を作る
な」と言うだけではない。中国政府は「中国が教科書記述を指導することを、日本人は恩義に感
じ、感謝しなければならない」「日本語の使用までは許しているのだから幸いと思え」とまで考え
ている。
事実、チベットや新疆内モンゴルなどは歴史教科書どころではなく、言語まで消滅させられよ
うとしている。これらの地域では、民族言語は初等教育では多少使用が許されているものの、高
等教育になると完全に中国語が用いられている。そのため内モンゴルでは、 モンゴル語がしゃべ
れるのは三人に一人。モンゴル文字が書けるのは六人に一人となってしまい、まさに民族消滅の
危機に瀕している。それに比べれば「日本などはまだ恵まれているぞ」という倒錯と傲慢をない
まぜにしたような意識が中国にはあるのだ。
政治第一、史実は二の次
中国には御用学者しか存在しておらず、歴史研究といっても体制イデオロギーを前提にしたも
のである以上、史実は二の次なのだ。中国の「正しい歴史認識」とは、あくまで政治に奉仕する
ものなのである。
中国の言う「正しい歴史認識」とは、中国の独善的歴史観に基づいたものというより、むしろ
内政・外交上の必要に応じて捏造したものがほとんどだといったほうがよい。だから共産党結党
後の歴史になると、すべてが共産党栄光史観に基づいた内容となる。
そのことは国民党と共産党の教科書を見比べれば一目瞭然である。もちろん国民党側も国民党
中心の捏造史観だが、「八年抗争」(日中戦争)に関しては共産党のものよりはるかに史実に近い。
日中戦争は世界のどの国から見ても日本軍・南京国民党軍 vs 重慶国民党軍の戦いであり、その
点、日本への抗戦の主役が自分たちであったとする国民党史観は正しい。だが、共産党の歴史観
3
では、それが共産党だったことになるのである。
抗日戦争は国民党に任せ、自らは勢力温存を図るというのが共産党の基本戦略だった。当時な
ら誰もが知っていたこの史実を、共産党は戦後、強引に否定した。なぜなら、「共産党の指導によ
る抗日戦争の偉大なる勝利」の栄光を、共産党は政権獲得の正当性の根拠の一つにおいているか
らだ。そして、抗日戦争が共産党軍 vs 日本侵略軍の戦いであったとの「正しい歴史認識」を民衆
に押しつけたのである。
日本はアメリカ軍に負けたのであって、中国戦線ではほとんど連戦連勝、終戦時にも圧倒的に
優勢な兵力を保っていた。 その事実を共産党は否定し、抗日の英雄的戦いを強調したいばかり
に、血湧き肉躍る小説もどきの戦争ストーリーを数々創作している。日本に押しつけられている
のが、このような経緯で生まれた「正しい歴史認識」なのだ。
中国政府の「誤った」歴史観の押しつけは日本に対してだけではなく、アメリカにも行われて
いる。
たとえば江沢民は訪米時に、中国のチベット侵略を農奴解放のためであったと言い張り、リン
カーンの奴隷解放と同様の歴史的義挙であったなどと強弁していた。 「台湾は中国の神聖不可
分の固有領土」という主張も、国際社会に対する捏造された歴史観の押しつけの一つだ。
中国政府はこのようにすることで、共産党捏造の歴史が世界中から承認されている「正しい歴
史認識」だと自国民に宣伝したいのである。
したがって、中国の史実を記述することは極めて難しい。歴史捏造の国であるだけに、ある程
度の歴史的知識と冷静な洞察力がなければ、なかなかわからない。
中国人は史実をまとめた『三国志』より、フィクションの『三国志演義』のほうを好み、そこ
に描かれた人物像や事象が歴史常識として一般に定着している。このように「正史」の通説、「野
史」の異説、そして小説の俗説に基づいて形成されたのが中国人の歴史観だ。現代ではさらに共
産党大会における歴史決議の「決定」も歴史観の重要な要素となっている。史実というものを二
の次、三の次に考える中国政府が、どうして歴史を正確に検証するだろうか。
中国人と違い、日本人には歴史というものは絶対捏造してはならないという「常識」がある。
ことに戦後は、歴史解釈はとことん客観的に行うべきで、研究者の主観を少しでも入れることは
許されないという極論すら珍しくない。だから 「司馬遼太郎の著書は小説であって、歴史研究の
参考にしてはならない」 といった話も、何度か日本人から聞かされたことがある。まして国定歴
史教科書が必要であるなどと言ったら、「政府の政治的意図が織り込まれ、歴史の書き換えが行わ
れる」「皇国史観の戦前に逆戻りだ」と大騒ぎになるのではないだろうか。
アジアを裏切った中国
大東亜戦争は日清、日露、日中戦争の延長線上に発生したアジア防衛の戦争だった。 西田幾多
郎は、「米英帝国主義の桎梏を脱して東亜諸民族の繁栄を手にする道は、東亜諸民族自らが共通の
敵、米英帝国主義の撃滅、根絶を期して結束する以外にない。すなわち、大東亜戦争を完遂して
東亜を保全し、大東亜共栄圏を確立して共栄の楽を倶
と も
にする」ことこそ「現代東亜諸民族の第一
の歴史的課題」であると言った。
このような認識は日本人だけでなく、西洋の植民地支配に苦しむアジア諸民族の共感を呼んだ。
ただひとりそれに同調せず、逆にアジア侵略の列強と手を結んだのが中国人だ。これだけは、
いくら強調しても足りない。
4
安定しない社会で近代経済社会の確立が不可能なのは常識である。百年以上にわたってカオス
状態にあった東アジアに新秩序を再建することが日本の歴史的使命となった。アジアの解放によ
る大東亜共栄圏構想も、まさにその延長線上にあった。
歴史は巨視的に見なければならない。外来民族が中華世界にとっては救世主だったという歴史
の視点が重要なのである。日本を含む非漢民族の侵入や支配が果たした役割と貢献については、
今日の近代ナショナリズムの視点、あるいは漢民族主義、中華民族主義の視点からでは決してわ
からない。
国際法無視の”革命外交”
戦前の日本民族の奮闘と努力が中国を救ったのである。祖国と民族を救われた中国人は、本来、
日本にどんなに感謝を捧げても捧げ足りないはずなのだ。 平成七年(一九九五)に村山富市首相
が言ったような、日本が中国に「侵略」した「過去の一時期」というのは、中国の天下(中華世界)
の崩壊期に当たり、複数の政府が乱立して軍閥内戦、国民党内戦、国共内戦が続く、まさにカオ
スの状態だった。どの政府も全中国を代表する、あるいは革命の大義を唱える正義・正統の政府
と主張しながら、対外的に一国の政府としての責任を負うことができなかった。つまり中国は国
家としての体をなしていなかったのである。
「中国は国家にあらず」という論が、この時代、日本の学界で唱えられていたが、それは謬見
でも不見識でもなかった。日中間の戦争の本質を考えるなら、日中戦争にはじまる一連の衝突事
件、事変、戦争は、決して近代国民国家間の国民戦争とはいえなかったのである。日清戦争にお
ける日本の相手は北洋大臣李鴻章の手持ちの私兵であり、 満洲事変の相手は張学良の満州軍閥
であり、日中八年戦争は蒋介石の国民党軍が主力で、いずれも国軍・国民軍ではなかった。
このような国において、日本が日清戦争以来獲得してきた数々の権益-国際法上も認められた
権益-は中国人によって無視され、否定され、脅
おびや
かされつづけた。それどころか中国は国際法を
無視する革命外交なるものまで展開し、日本は外交上振り回されるばかりであった。いわば日本
は、中国群雄の独善的な私利私欲の狂奔に翻弄されつづけたということだ。
反日・排日の罠

中華民国は内戦つづきで、ほとんど単一政府を確立することができなかったので、日本は近代
的国民国家として、中国での正当なる国家権利と国家権益を守るため、内戦の早期終結に向け'
たとえば段祺瑞
だ ん き ず い
(袁世凱の後継者)の北京政権や、汪兆銘政権など親日勢力への加担やその内戦へ
の介入をしなくてはならなかった。内戦状態の中国では日本をはじめ列強諸国の介入や加担は避
けようがなかったことも忘れてはならない。 このように日本は内戦に巻き込まれ、中国の泥沼に
はまってしまい、人的・物的・金銭的に多大な犠牲を強いられ、最後には敗戦の憂き目に遭った
のである。
もし中華民国時代に中国の政府が一つだけであったら、日中間に戦争は起こらなかったかもし
れない。どの戦いも、各政府、各勢力が自派の私利私欲のために対日挑発を行い、自派の軍隊は
温存しながら、他派の勢力を戦争に駆り立てるように仕向けた結果である。そこに日中間の戦争
の本質がある。これを「侵略」として非難するなら、大東亜戦争後の中国の各国への内戦介入、革
命輸出、領海・領土侵犯などはいったい何だというのだろうか。
5
日中戦争の真因は、日本の「侵略」や「陰謀」などではなく、中国国内の各派勢力が次から次
へと仕掛けた反日・排日の罠に日本がまんまと嵌ったことにある。 「罠」は反日宣伝、排日デ
モ、反日教育、日貨排斥から日本居留民の虐殺まで、数えきれないほど仕掛けられた。このよう
な度重なる挑発に、日本世論は「暴支
ぼうし
膺懲
ようちょう
」(暴虐な支那を懲らしめる)に燃え上がり、日本は本
格的な戦争に突入していった。
そうした反日の挑発は、内戦をつづける各派が自己勢力の安泰を図るためであった。たとえば
国民党の非主流派は最大勢力である蒋介石の国民政府に日本と戦わせ、その強大化と集権化を牽
制し、あるいは蒋派の討伐から自分の勢力を温存しようと考えた。
各派勢力は対日挑発を繰り返しながら、日本からの非難や抗議にも自分では責任を負わず、み
な他の勢力になすりつけていた。国共内戦で延安にまで追い詰められた共産党も、そうすること
で崩壊を免れようとした。抗日統一戦線を呼びかけたのも、まさに自分たちが生き延びるためだ
った。時間的な長さからしても、悲惨さからしても、中国では対外戦争によるよりも内戦による
犠牲者のほうが遥かに大きい。
中国の内戦を停止させた
清帝国が十八世紀半ばに東アジア世界の征服を終えた後も、各地で反乱、内戦が頻発し、その
状態が中華民国時代、そして中華人民共和国時代まで百数十年にもわたって継続された。内戦、
内乱の一つ一つを見ても、白蓮教徒の乱、太平天国の乱、回乱(イスラム教徒回族の反乱)、文化
大革命などは十年以上つづいたし、犠牲者数も対外戦争とは比べ物にならないくらい大きかった。
たとえば太平天国の乱における犠牲者は五千万人から人口の五分の一にあたる八千万人に達し
たと見られ、 回乱では四千万人が殺された。それに対して、日中戦争での中国側の犠牲者は三千
五百万人と公表されているが、実際には三百万人ほどだったようだ。 中国の対外戦争は、国内の
矛盾をそらすためでなければ、内戦の一時緩和のために行われ、内戦による犠牲者数の減少とい
う「役割」を果たしてきた。ことに日中戦争は、国共内戦およびその他各武装派勢力間の内証(内
紛)を停止させるという歴史的貢献を果たしている。
それはたまたまそうなったとは決して言いきれない。日本は絶えず中国の国内安定、内戦停止
を希求しながら関与してきた。そのためかえって内戦に引き込まれて日中戦争がはじまったわけ
だが、日本軍という強大な勢力の進出によって国共内戦は終息した。日本の占領地では、つねに
日中和平の旗印の下、中国社会の治安維持と平和的再建に力が注がれるようになった。
以後は「共同抗日」のスローガンの下、国共の正面衝突は避けられ、せいぜい小競合い程度に
なった。国民党からの攻撃を避けるために日本軍を戦争に引き込んだ共産党の謀略が功を奏した
ということができる。そして日本軍が撤退すると、たちまち国共内戦は再燃したのだった。
中国の内戦を停止させたのが日本であったことは、世界の近現代史において特筆されるべきだ。
しかも、日本軍の中国の平和回復への貢献は国共内戦を停止させたというだけにとどまらない。
日本軍の進出によって、華北・華中では平和勢力が結集して地方自治政府が次々と誕生した。内
戦武装勢力の解体があり、治安が確立されるや満洲国に続けとばかりに近代産業建設が着手され
た。
百五十年も続いた内戦を日本軍は一撃のもとに終結させ、人々に平和をもたらしたのである。
中国人は靖国神社を憎悪するが、実は中国人こそ、靖国の社頭に額
ぬ か
づき、日本軍の英霊に感謝の
祈りを捧げなくてほならないのだ。
6
中国における中華帝国以来の苛斂誅求、そして飢饉や流民といった農民問題は、今日に至って
も基本的にはほとんど解決されていない。それは中国の宿痾
し ゅ く あ
であると言える。
中国農民を救済
たとえば、日中間の衝突が激化の一途をたどりはじめた一九二〇年代からは、洪水、旱魃
か ん ば つ
、蝗害
こ う が い
(イナゴによる被害)といった自然災害が頻発した。災害を拡大したのは長年の内戦による水利組
織の破壊である。水利事業は、強力な国家組織があってはじめて行い得るものだ。だから古来中
国では水利事業は帝王の事業と考えられてきた。しかし、中華民国時代には、そのような国家組
織は存在しなかった。
その被害は日本人の想像を絶するものだ。日中戦争直前の一九二七~三五年にかけてはほぼ毎
年のように大水害もしくは大旱魃が発生し、そのたびに一千万人から五千万人が罹災している。
この八年間における自然災害で各地の農業は潰滅し、一家離散の悲劇だけでなく、深刻な飢饉に
よって多数の餓死者が出ている。被災者数は全人口の約四分の三だったといわれる。
中国は、平時でさえ食料の生産性が低く、完全な自給は困難であり、二十世紀に入ってからも
食料を輸入する状況だった。そして、労働人口の余剰によって年々数えきれないほどの餓死者が
出た。戦後、毛沢東の「大躍進」政策の失敗で数千万人規模の餓死者が出たのも、決して不思議
ではないのだ。
五千年もの農耕の歴史を持ち、人口の九割が農民である中国の、こうした奇怪千万な状況に対
し、中国政府にかわって農村を救済したのが日中戦争における日本軍民だった。
日中戦争勃発の年である昭和十二年(一九三七)正月の衆議院国会では、近衛文麿首相が 「支那
民衆の心を把握しなければ、東洋平和の確立、ひいては日支両国の提携はできない。支那は農業
国であるから、支那農民と結び、農業の発展をわが国が手伝うことは極めて必要なことだ」 と発
言している。
当時の日本人にとって、隣国中国との提携を果たすには、まずはこの国の人口の圧倒的多数を
占める農民を、悲惨な状況から救い出すしかないと考えたのはごくごく自然なことだろう。
民衆を犠牲にした中国軍
それに対して、日中戦争がはじまると、日本軍の進撃を阻止したい中国軍は、農村の灌漑施設
を破壊し、軍を養うため作物や家畜を収奪した。さらに、「拉夫
ら ー ふ ー
」という強制連行によって労働力
さえ奪ったのである。抗日ゲリラも食糧需給秩序の撹乱に狂奔した。つまり重慶政府も共産ゲリ
ラも、国家防衛を口にしながら、相変わらず農民の生活と生命については無関心だったと言える。
重慶政府は、前線将兵からの食糧供給要請に「農民から徴発せよ」と答えているし、日本軍の
進撃を防ぐためへ自らは戦うこともなく、黄河を決壊させて十一の都市と四千の村を水没させる
ような所業を平然と行っている。
進駐してきた日本は掠奪を行うどころか逆に、すでに台湾・朝鮮・満州で行ってきたように生
産計画を立て、生産を指導・支援し、地主に苛斂誅求をやめさせ、土匪の襲撃から農村を守り、
食糧の確保と農民の救援に躍起
や っ き
となっていたのである。
これは農村の近代化支援でもあった。食糧増産を図っただけでなく、植林を行い、電力を供給
し文化指導を行い、学校や病院を建て、医療人材の育成にも力を注いだ。また、鉄道、道路、港
7
湾建設などのほか、華北・華中の産業開発も大々的に振興させた。
一方、日本の非占領地である重慶政府支配地域では、豊作が続いたにもかかわらず食料品の急
騰が続き、深刻な食糧恐慌に陥った。この奇妙な現象は、主に地主・大商人・官僚・軍人などが投
機目的で食糧を買い占めた結果、起こった。このように権力者や有力者が私欲に走り、民衆の生
活や生命を犠牲にするのが中国の伝統社会の一大特徴である。
日本軍は、中国伝統の農村経済システムを打破してまで農民の救済に取り組んだ。農村経済の
近代化のために日本が指導したのが合作社運動だ。これは日本でいえば農協と産業組合を併せた
機能を持つもので、村落間の抗争の仲裁から教育・技術指導・文化活動までを行って、無秩序状
態にあった農村を経済的に組織化したのだった。
このような試みは、満洲国は例外としても、中国史上類例のないものだった。創意工夫の思考
を持たない中国の伝統的為政者とは異なり、創意工夫だけで国家を支え、繁栄させてきた日本人
は、中国を停滞から発展へと導いたのである。
かくして戦火のなかでも中国の農民たちは、数千年来の貧窮から脱し希望の光を見出すことが
できるようになったのだ。このことを中国政府は死んでも認めたがらないだろう。せめて日本人
はこれを先人の歴史的偉業として心に刻み、中国の押しつける日本侵略史観を断固はねつけなく
てはならない。
大飢饉の救済・教育も
二十世紀になると、戦乱と飢饉はさらに拡大の一途をたどった。満洲事変から日中戦争までの
あいだ、水害と旱魃は大地を襲い、その被害者は億単位に上っている。たとえば一九三〇~三二
年の西北大飢饉は、中華民国の広報によると餓死者は一千万人で、飢民のあいだでは共食いが起
こり、流民も溢れ出ている。日本政府も事態の深刻さに調査団と救援団を派遣していた。日本の救
援団は日中戦争のさなかにも戦場を駆けめぐって各地の深刻な大飢饉への救援活動を行っていた。
日本の敗戟後は国共内戦が全国規模へと拡大し、日中戦争以上の乱世となった。そして飢餓も
いっそう深刻化した。中華人民共和国が樹立されると、局面は横の戦争から階級闘争という縦の
闘争へと移った。ことに「大躍進政策」の失敗により、中国政府は二千万人から五千万人と推定
される自国民を餓死させている。社会主義建設に失敗し、それによる犠牲者とその遺族に責任を
取らざるを得なくなった中国政府は、中国の不幸はすべて日本の「侵略」のためだと、懸命に責
任転嫁の日本叩きに遇進している。
「民は由

らしむべし、知らしむべからず」とは孔子以来の中国「愚民」政策の根本思想だ。そ
もそも中国における学問とはいかに民を統治するかを知るためのものである。一部の支配者層が
ひたすら学問に励んだのは、官吏登用試験である科挙に合格するためであった。もちろんその学問
も、体制の現状維持のためにあるものだから、そこでは独創や進歩というものが排斥されていた。
圧倒的多数の庶民にとって学問はまったく無縁のものであり、むしろ関係してはならないもの
であった。庶民は無学のまま、有徳とされる支配者の前で従順であれば、それで天下は治まると
考えられたのだ。だから愚民でなければ政府から睨
にら
まれ、危険視されることになる。「反右派闘
争」と「文化大革命」で知識人が弾圧されたのも同じことだ。毛沢東の革命事業は、群衆の狂気
を利用しようというものであり、その「狂気」を「狂気」と批判しかねない知識人を危険視した
のである。
二十世紀に入り、崩壊寸前の清国は、それまで馬鹿にしていた日本の富国強兵ぶりにあこがれ、
8
ようやく日本の近代制度の模倣と日本官民の指導の下で近代国家を目指す大改革に着手した。東
夷日本の制度を導入できたのは、当時の清国政府が、日露戦争での日本の輝かしい戦勝を目の当
たりにし、そのショックによって大中華思想を一時ながらも放棄できたからだ。
科挙の廃止と日本留学
その象徴が、科挙の廃止と、日本留学が官吏登用の条件となったことである。国民教育で国民
一人一人の素養を高め、国家の富強を目指さなくてはならないことに、はじめて中国人は気がつ
いたのである。それは伝統的な学問の概念の一大転換であり、これこそ真の意味での文化大革命
だった。
明治二十九年(一八九六)に最初の清国留学生十三名を迎えて以来、日本の政府・軍部・教育界
は、彼らのために学校を建て、カリキュラムをつくって熱心に教育した。当時の日本人が清国に
望んでいたのは国家の近代化である。ことに、三国干渉(一八九五)以降の危機感の高まりから、
清国が速やかに弱体・腐敗体質を改めて近代改革に着手し、日本との提携関係を構築することを
切実に願っていた。そのために中国の若いエリートたちが日本で近代文化を吸収し、対日理解を
深めて今後の提携の 礎
いしずえ
を築くことを切望したのである。
留学渡航者数は年々増加し、一九〇五年には八千人を超え、ピーク時の〇六年には一万人前後
ともいわれ、あるいは二、三万人に達したとの資料もある。
一九〇五年を境に留学生が急増したのは、この年に科挙制度が廃止され、日本留学が官吏登用
の条件となったこと、そして、日露戦争に日本が勝利したことによって、近代化のモデルが日本
に定まったからである。「日本留学」が、千三百年以上つづいた科挙制度にかわる仕官への道と
なったことは中国文化史上、特筆されてよいことだ。もちろん、反日史観に凝り固まった今日の
中国人が口に出せるはずもない。
清国の軍事留学生たちが関心をもち、あるいは感嘆してやまなかったのは日本の軍事力の大き
さみならず、国民のあいだに漲
みなぎ
る強烈な愛国心、国家防衛意識、そしてそこから生まれる団結心
と滅私奉公の精神であった。これは留学生の手記からも十分にうかがい知ることができる。清国
留学生たちは日本と日本人を崇拝し、信頼しながら懸命に学んだのである。これを当時の中国人
は「師日」時代と呼び、「黄金の十年」とも言われた。
日本が近代中国の軍事的人材を育てた意義は大きい。これらの人材は帰国後、日本陸軍の軍事
顧問と協力して中国軍の近代化を推進した。清末における清軍の急成長は目覚ましいものがあり、
列強が脅威を感じたほどだった。それほど日本軍人の中国軍の近代化に注いだ情熱はなみなみな
らないものがあったのだ。
当時顧問をつとめた日本軍人は、やがて日中戦争が勃発すると、多くは中国人と戦っている。
もし彼らが本当に「中国侵略」の陰謀を持っていたというのなら、中国軍の拡充と精鋭化になぜ
そこまで心血を注いだのかがまったく説明できなくなる。
北京大学設置に尽力
もちろん、日本人が情熱を傾けた中国の人材育成は軍事に限られたものではなく、政治・経済・
教育など、あらゆる面において行われた。司法制度・警察制度においてもそうであった。社会科
学・自然科学はもとより人文学・医学・建築等々、近代科学技術の人材育成に国を挙げて協力し
9
た。日本人教師も一時は一千人にも達していた。北京大学の設置も、日本人学者の努力抜きには
語れない。
このような日本官民の情熱はどこからきたものかといえば、それは一つには 「同文同種」 と
いう中国への親近感、同情心といった熱烈な感情からである。もう一つは、当時の日本人にあっ
た時代の精神ともいうべき興亜、アジア隆盛への使命感である。 だが、日本官民の中国近代化に
対する有形無形の声援、支援、協力、指導も、結局は中国人の内訌、内戦、 あるいは日本への背
信、裏切りによって潰
つ い
えた。その後、中国では愚民政策が根本的に反省されることはなかった。
ついでに言っておけば、日本は中国にかわってその歴史文物を大切に保存してきた。
中国人は何かといえば遣隋使、遣唐使を持ち出して「日本に文化を教えたのは中国だ。中国文
化を取り入れなければ日本人は未開人のままだった」と口にする。しかし、中国が日本に文化指
導を行ってきたかのように言うのは間違いだ。遣唐使が日本に持ち帰った典籍は中国から高額で
買い取ったものであり、日宋貿易の時代にも、宋が渡来を許していた日本人は僧侶だけだったか
ら、各地の大名は密貿易を通じ、法外な値段で中国の文物を買っていた。
中国には五千年もの悠久の歴史があると自慢するが、中国人は世界に類を見ない伝統・歴史・
文化の破壊者なのである。文革時代にすべての旧文化、旧風習、伝統をぶち壊す全国的運動が起
こったことでも明らかだが、秦の始皇帝の「焚書
ふ ん し ょ
坑儒
こ う じ ゅ
」に代表されるように、易姓革命が起こる
たび、中国人は前王朝を全面否定するためにその文化遺産を徹底的に破壊したきたのである。
遣隋使・遣唐使以降、日本が中国から輸入した 夥
おびただ
しい数の典籍のなかには、本土ではすでに
失われたものが数多く含まれている。宋の時代にはすでに、日本が珍書、稀少本、逸書の宝庫で
あることが知られていた。明治維新後に日清間の往来がはじまると、そのことが再び中国人に知
られることとなり、失われた典籍の逆輸入が行われた。それは中国における学術研究の空白を大
きく埋めることになった。本国で失われた書を探し求め、清国の学者が大挙日本を押し寄せたの
は一八八〇~九〇年代である。
近代文化だけではない。伝統文化においても「恩恵を蒙った」のは日本ではなく、むしろ中国
のほうである。
「対華二十一ヵ条」の真相
中華民国後の日中関係が急速に悪化した大きな原因としてしばしば指摘されるのが、日本によ
るいわゆる「二十一ヵ条要求」である。
「二十一ヵ条要求」は一九一五年(大正四年)一月、大隈重信内閣が中華民国大総統袁世凱に提
出したもので、今日では日本でも中国でも、「中国主権を著しく侵害する要求で、最後通牒を突き
つけてむりやり承諾させた」というのが定説になっている。
だが、当時の日本政府は、それらの要求が他の列強諸国に比してとくに過酷なものとは考えて
いなかったし、実際そのとおりだった。「二十一ヵ条要求」は第一号から第五号まであるが、たと
えば第二号にある「租借期限の九十九年延長」は、香港の租借に関して英中間で同様の取り決め
を行っていたし、第三号の「漢冶洋公司の日中合弁」についても、漢冶洋公司(中華民国最大の製
鉄会社)はすでに日本と提携関係にあったのである。
つまり日本は中国における政治経済活動の「西洋列強並み」を求めたにすぎない。日本の中国
進出は他の列強諸国とは違い、まさに国家の死活問題だった。日清戦争以降、何かにつけ列強各
国から妨害を受けて不安定な状況にあった中国での既得権益を、第一次大戦で各国が中国を顧
かえり

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ないあいだに整理・設定してしまおうとしたのが、この「二十一ヵ条要求」の狙いだった。
主権侵害として中国側からもっとも非難されたのは第五号である。その内容は以下のようなも
のだ。
1、日本人の政・財・軍顧問の起用、2、日本人の病院・寺院・学校への土地所有権附与、
3、一部警察の日中合弁、4、日本からの武器輸入、日本からの兵器購入と日中合弁の兵器工
場設立、5、華南での鉄道敷設権、福建省の鉄道・港湾・鉱山における優先権、7、日本人の
布教権などを求める七項目。
これに限っては、日本の「要求」というより「希望」に過ぎなかったし、最終的に中国への配慮
から大きく譲歩して同年五月に締結された「日華条約」では、この第五号の七項目はすべて削除
されているのである。
日本が最後通牒を行ったことにしても、それは衰世凱が英米などに日本に対する圧力をかけさ
せようと交渉を引き延ばしたため、そこで断固たる措置をとらなければ排日勢力が増長すること
を懸念したからだ。また、国内の反対派に配慮した袁世凱が、逆に「最後通牒」を求めてきたとい
う説も有力である。
故意に歪めて伝える
そして、袁世凱政府をはじめとする中国人は、「二十一ヵ条要求」の交渉中から、その内容を故
意に歪めて国内外に伝えていた。例を挙げれば、「中国の学校では必ず日本語を教授しなくてはな
らない」「中国で内乱が発生したときは日本の軍隊に援助を求め、日本によって治安を維持しなけ
ればならない」「全国を日本人に開放し、その自由営業を認めなければならない」「中国陸海軍は
日本人教官を招聘
しょうへい
しなければならない」「南満洲の警察権と行政権を日本に譲渡すること」など、
いずれも原文には見当たらないでっち上げだ。このようなものを内外に宣伝することで'内におい
ては排日運動を巻き起こし(条約締結の五月九日は「国辱記念日」に指定された)、外においては
列強に対日圧力をかけさせた。こうしたパターンの反日工作はその後も継続され、それが満州事
変、支那事変の原因となった。
袁世凱にとっても「二十一ヵ条」は理解できない内容ではなかったはずだし、孫文は白人に対
抗するため「日中の親善を図るうえで妥当なものだ」と考えていた。だから、中国政府による「二
十一ヵ条」への反発は、袁世凱の策略という側面があった。一つは反日運動を利用して国民の団
結を図り、一つは「夷をもって夷を刺す」という狙いがあった。つまり外国同士を対立させて、
それをコントロールしようとしたのである。
列強から中国を救った
列強の時代においては、インドや東南アジアが植民地化されて、アジアで最後に残された独立
国家は、タイを除けば日本と清国だけであった。しかし、その清国も英仏独露によって分割され
る運命にあったのである。
そのような運命から中国を救ったのが日本だった。日本は西欧による植民地化という世界潮流
のなかにあって、逆に短期間のうちに列強の仲間入りができた。時代へのこの対応力は実に驚く
11
べきものだった。日本は文明開化、殖産興業という西洋文明への改宗に成功し、そして日清・日
露戦争で国家存亡の危機をみごとに乗り越えたのである。
ことに日露戦争については、国家防衛の戦いというだけでなく、アジア防衛、有色人種防衛の
ための戦いであった。このことは、もし日本が戦いに敗れていたら世界はどうなったかを考えて
みればよく理解できるはずだ。
ところが中国の歴史学者は日露戦争を、単に「日本の中国侵略」としか見ない。当時の世界潮
流、列強間の力学的関係をいっさい見ようとはせず、日本の「侵略の野心」を論ずるのみである。
政治の道具にすぎない中国の歴史学においては、「真実」は重要ではないどころか、時と場合によ
っては「真実」が最大の敵となる。
もし日露戦争に敗れていたら、日本はロシアの植民地になっていたであろう。すると大陸はど
うなったかといえば、日本というアジアの抵抗勢力がいなくなった以上、ロシアは当初の計画ど
おりに満洲・朝鮮を版図に組み入れた。清国も西欧列強によって分割が進められたことだろう。
ロシアはものすごい勢いで南下し、中国には大混乱がもたらされたはずだ。中国人は日本という
近代化支援者を失い、立ち上がる機会は二度と与えられなかったに違いない。日本以外に列強の
植民地勢力に対してアジア解放の戦いを挑むことのできる国など現れるはずもなかった。
日露戦争における日本の勝利が、中国を亡国の危機から救ったのである。たまたま日本が勝ち、
ロシアが負けたから結果的にそうなったということでは絶対にない。それは、中国、アジアを救
出しなくてはならないという、当時の日本人の使命感によるものだったのである。
黒船来航後、黄色人種 vs 白色人種の対立図式をいち早くみてとった日本では、東アジア諸民
族が同文同種、同俗同習であるという共感と親近感もあって、官民を問わず、「大アジア主義」 と
でも言うべきアジア共同防衛の構想が形成された。日本の国益だけを追求するのではなく、「ア
ジアは一つ」 の信念の下で、何としても中国の分割を阻止したい、中国を保全してその再興を待
ち、共同でアジアを守りたいというのが当時の日本人の念願だったのである。これだけは、いく
ら否定したくとも否定できない史実である。
ところが、「支那保全」を目指す日本は、「支那分割」を狙う他の列強諸国とは異なり、欧化した日
本を「中華文明の背教者」として蔑
さげす
んでいた中国人の反日・侮日の嵐に見舞われ、その中国政策
は必ずしもスムーズにはいかなかった。
国家主義運動の指導者だった内田良平は、「『保全』といった心やさしい姿勢では、かえって中
国人の侮りを受けるだけだ。むしろイギリスのような冷酷で高圧的な態度で臨まない限り、中国
人とはつきあえない」という意見書を政府に提出しているが。それは正論であった。「やさしさ」
を「弱さ」と判断する中国人は、日本人を与し易しと見たのである。
心やさしい民族性から、亡国の危機にある中国を救おうとし、中国から愚弄・翻弄されても騙
されても、「夷をもって夷を制す」という中国の外交的策略に乗せられても、お人好しにもただ
ひたすら中国の「覚醒」を信じつづけて、結局、戦争に負けたのが日本という国であった。
日本は蒋介石に対し、アジアの和平の確立を訴えつづけてきた。しかし、中国はあくまで自国
内戦の都合から、アジアの和平どころか、英米植民地勢力を引きこんで日本と対立させ、さらに
は自国の内戦に日本勢力を巻き込んでアジアを混乱の淵に陥れたのである。
なぜ中国は自国の分割を阻んでれた日本に反抗し、分割の野心を抱いていた西欧列強にばかり
歩み寄っていたのだろうか。それは、中国人には国家防衛の大義というものがまったくわかって
いなかったからだ。
このような愚かな民族を隣人に持ったことは、日本にとって大きな不幸だった。「謝罪」すべ
12
きなのは日本ではなく中国なのである。
  ≪愛知・一宮市立中学校長のブログ全文≫.

2月11日は建国記念日です。
そこで、今日は日本のルーツ、日本の起源について、お話をしたいと思います。
日本の建国は、今から2675年前の紀元前660年2月11日、
初代、神武天皇が即位した日が始まりです。
世界一広いお墓、大仙古墳で有名な、16代仁徳天皇が、ある日高台に登って遠くをご覧に
なられました。すると人々の家からは、食事の準備のために煮炊きする煙が少しも上がって
いないことに気付いたのです。

仁徳天皇は
「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。
都がこうだから、地方はなおひどいことであろう」と仰せられ、三年間、税を免除されました。

税を免除したために朝廷の収入はなくなり、宮殿は大いに荒れました。
天皇は衣を新調されず、茅葦屋根が破れ、雨漏りがして、星の光が屋根の隙間から見える
という有様でした。.

三年がたって、仁徳天皇が同じ高台に出られて、遠くをご覧になると今度は、人々の家々
から煮炊きする煙が盛んに立つのをご覧になり、その時、仁徳天皇がこのように言われたと
いうことです。.

 「高き屋に のぼりて見れば煙立つ 民のかまどは賑わいにけり」.

そして、一緒におられた皇后に
「私は豊かになった。喜ばしいことだ」とおっしゃったということです。

皇后はそれを聞いて
「陛下は変なことをおっしゃいますね。
衣服には穴があき、屋根が破れているのに、どうして豊かになったといえるのですか」.

すると「国とは民が根本である。その民が豊かでいるのだから、私も豊かということだ」と言われ、
天皇は引き続き、さらに三年間、税をとることをお許しにならず、六年が経過して、やっと税を
課して、宮殿の修理をお許しになりました。

すると人々は命令もされていないのに、進んで宮殿の修理をはじめ、またたくまに立派な宮殿が
できあがったといいます。.

この話は神話であり、作り話であるという説もあります。
しかし、こうした神話こそが、その国の国柄を示しているとも言えるのです。.

こうした天皇と国民の関係性は、何も仁徳天皇に限ったことではありません。

敗戦直後の1945年9月27日、124代昭和天皇はマッカーサーと会見をしました。
そして、その会見で昭和天皇はこのようにマッカーサーに話したのです。.

「今回の戦争の責任はすべて自分にあるのであるから、東郷や重光らを罰せず、私を罰して
ほしい。ただし、このままでは罪のない国民に多数の餓死者が出る恐れがあるから、是非
食糧援助をお願いしたい。ここに皇室財産の有価証券類をまとめて持参したので、その費用
の一部に充ててほしい」と述べたのでした。.

それまで、天皇陛下が、多くの国王のように、命乞いに来たのだろうと考えていたマッカーサー
元帥は、この言葉を聞いて、やおら立ち上がり、陛下の前に進み、抱きつかんばかりにして陛下
の手を握り、「私は初めて神のごとき帝王を見た」と述べて、陛下のお帰りの際は、マッカーサー
自らが出口まで見送りの礼を取ったのです。.

このように、初代、神武天皇以来2675年に渡り、
我が国は日本型の民主主義が穏やかに定着した世界で類を見ない国家です。.

日本は先の太平洋戦争で、建国以来初めて負けました。
しかし、だからといってアメリカから初めて民主主義を与えられたわけではありません。
また、革命で日本人同士が殺しあって民主主義をつくったわけでもありません。.

古代の昔から、日本という国は、天皇陛下と民が心を一つにして暮らしてきた穏やかな
民主主義精神に富んだ国家であったのです。.

私たちは日本や日本人のことを決して卑下する必要はありません。
皆さんは、世界一長い歴史とすばらしい伝統を持つの国に誇りを持ち、
世界や世界の人々に貢献できるよう、一生懸命勉強に励んで欲しいと思います。


(原文のまま).