前回からのつづき (今週は土曜日に出かけてしまうので、少しだけ早く更新)
「ボーズ」
「は?」
「ボーズよ」
ボーズだって?頭を剃って袈裟でも着せるのだろうか。お手の代わりにお経でも教えるつもりだろうか。
しかし本当にお経が唱えられる犬がいたとしたら間違いなくスーパータレント犬だ。そうなったらそのギャラで六本木ヒルズの専用エレベータ付きの部屋に住めるかも知れない。
しかしいきなり頭の毛を剃ってしまうのも可愛そうな気がする。頭が寒くてすぐ風邪をひいてしまうんじゃないか。心配である。
「頭剃ったりしちゃうの?風邪ひかないかな」
「何言ってんの。どうして犬の頭の毛なんか剃るのよ。そのボーズじゃなくて、男の子だからボーズ」
「え」
僕はとんでもない勘違いをしていたらしい。さようなら六本木ヒルズ。さようなら専用エレベータ。
しかし男の子だからボーズって。犬に「犬」って名前付けるのとどれほど違うんだそれ。そもそもその名前を君は人前で呼べるのか。訊いてみたら胸を張ってツレはお言葉を賜ってくださった。
「友達や会社の人に『いやあ、うちのボーズが待ってるから。お先!』とかって言えるでしょ?」
「なるほど」
何がなるほど、だ!気軽に納得なんかするなマイセルフ。冷静に考えてみれば大の大人が納得するような理由じゃないじゃないか。
しかしそれでもそういうわけで名前はボーズになりましたとさ。なんだよそれ。人前で呼べるのかよその名前。って言うか呼べるんだよなあ、この人は。でも僕は少し恥ずかしい。会社で「いやあははは、ウチのボーズが待ってるから今日は早く帰りますよあはは」などと言えるモンかっての。「え?お子さん居たんですか?」って言われるのがオチだっての。それで「いやいや、犬ですよ犬。犬の名前なんですよガハハ」なんて言い訳する羽目になるんだよ、間抜けにも。だったら最初から「犬の散歩しなきゃいけないんで帰ります」って言えばいいじゃんかっ!……まあそんな理由で会社を早引けする奴も困りモノですが。
その日の夜。ツレがちょっと買い物に出かけている間に、おばあちゃんの家で撮って来た彼の写真を取り出して呼びかけてみた。彼が来た時に、笑顔で名前を呼びかけて迎える事ができるよう、練習である。
海の天使クリオネならぬ陸のボーズ
「ボーズくん」
恥ずかしくなって誰も居ないのに何故か辺りを見回してから部屋のドアを閉める。
「ボーズくん」
ボーズくんは返事をしない。当たり前である。写真なんだから。もう少し大きな声で呼びかけてみる。
「ボーーズくん!」
両手で写真を持ってかざすようにして呼びかける。首なんかも傾げながら言ってみる。
「ボーーズくうん!」
僕の発した言葉の語尾はだらしなく伸びていたと思う。多分。
その時突然部屋のドアが開いてツレが顔を出した。僕は驚いて写真を掲げて首を傾げたそのままの格好で、口をぽっかり開けて固まってしまった。
「何してるの?間抜けなカッコして」
「れ……練習」
「何の?」
それには答えられない。答えられるはずもない。恥ずかしいから。だから僕は嘘をついた。
「ひょ……表彰式」
「何の?」
「会社の」
「へえ」
何とか切り抜けられたようだ……と自分に言い聞かせる。とにかくそう信じよう。信じるしかない。信じる事から全ては始まるのだ。
僕は悪戯を見つからずに切り抜けた子供のようにほっとしながらボーズくんの写真をそっと机の引き出しにしまいこんだ。
しかし帰ってたのなら帰ってたらしく物音を立てるとか足音を立てるとかして欲しいもんだよホント。全然気付かなかったぞ。ノックくらいしてくれよ、無礼者め。僕は心の中で毒づきながら、表面ではツレを優しく労った。
「買い物ご苦労様。帰ってたの。早かったね」
「もう随分前よ」
え。
「気に入った?」
「何を?」ヤな予感。
「名前」
どういう事ですか?
「さっきから大きな声でボーズくうんボーズくうんって、甘ったれた声出してさ」
……全て聞かれていたのだった。首から上に身体中の血液が一気に上がった。僕の顔は茹で上がったばかりのホヤのように情け無いものだったに違いない。茹で上がったホヤがどんな色をしているかは知りませんけど。
どれだけ時間が経っただろう。ドアは何時の間にか閉められており、僕は、熱い顔と力の抜けてしまった身体で椅子の背にもたれかかったまま、ひとり部屋に取り残されていた。
その夜はひとり孤独を噛み締めたくて(というより恥ずかしくて)、南佳孝を気取ってひとりソファで寝ることにした。ソファなんか無いんですけどね。だから布団がソファだと想像して寝るワケです。想像力は人間だけに許された偉大な力。布団を寝室から隣の居間に引きずり出しているとツレが聞いた。
「何してるの?」
「ソファで寝る」
意味不明である。
「?」マークをアタマの上に出しながらも、ツレは何も言わずに寝てしまった。
僕はひとり、「今夜はソファで寝て~あげるよ~」などと呟きつつも全く寝付かれずに一晩中身悶えしていた。そのせいで布団がぐしゃぐしゃになってしまったくらいだ(当然である)。
こんな時ボーズくんが居てくれたら、きっと気持ちも落ち着くんだろうなぁ。早く来ないかなぁ。ボーズくん。ボーズくんかぁ。変な名前っ!
それでも頭の中にはキュートなボーズの写真が焼きついて離れようとはしなかった。ああボーズ、ボーズ。可愛いボーズ……ボー……んがーんごー。
次はついに「ボストンテリアを迎えに行く」っ!