中川牧三さんという声楽家がおられたと知った。全く存じ上げなかったが、同志社で学ばれた方だと教えられ、又、105歳という長寿を全うされた方だと知って興味が湧き、河合隼雄さんとの対談集をアマゾンで買った。



中川さんは1902年に京都で生まれ、1910年からバイオリンを、1920年からは声楽と指揮を始め、ベルリン国立高等音楽学校、ミラノ国立音楽院、国立スカラ座歌手養成所、南カリフォルニア大学で学ばれ、イタリア、アメリカでテノール歌手として活躍後、1934年に帰国される。


戦争が始まると、堪能な語学能力と車の運転経験(アメリカで運転免許証を取られた)を買われて召集され、上海で陸軍報道部スポークスマンという軍務に就かれる。そして、敗色濃い終戦間際の上海で次のような出来事が起こる。


1945年4月、米国のルーズベルト大統領が亡くなる。「敵国の首領ながら、亡くなった時には英雄として敬意を払うべき」と中川さんは市内の数ヵ所にアメリカの弔旗を立てさせる。その2年前から、米軍の攻撃に敗退を続ける日本軍の情報を得ていた中川さんは、なんと東京の参謀本部に降伏を進言されていたというから、自分の意見を堂々と述べる人だったようだ。ただ、この弔旗の件で憲兵に睨まれ、軍の中ではスパイと罵られ、完全に孤立してしまう。


ところが、戦後になって軍事法廷に出頭を命じられ、危うく偽証罪の濡れ衣を着せられそうになった中川さんを救ったのは、証人として呼ばれたコーヒーショップの英国人マダムだったらしい。彼女は中川さんをジェントルマンと呼び、日本軍人の中でただ一人、コーヒー代を支払ったのが中川さんだと説明し、更には、自分が孤立することを承知の上でアメリカの弔旗を立てさせたのも中川さんだと証言する。判事席には動揺が走り、中川さんは無罪放免となる。

その人の行いがその人の人生を作る。元旦の朝に、それを教えられたように思う。