「流石!」と感心させられたのは徳川家康だ。天下分け目の戦い、関ヶ原の合戦では当初、西軍の方が地の利を得ていたらしい。又、西軍の主力部隊は大垣城に籠り、家康からすれば攻め落とすのに時間が掛かる厄介な状況だったとのこと。そこで家康は偽の情報を西軍に流し、大垣城の西軍主力部隊を互角に戦える関ヶ原に誘き出すことに成功する。
驚いたのは、この作戦の元になったのが三方ヶ原の合戦だったことだ。三方ヶ原の合戦では武田信玄の策略にまんまと引っ掛かった家康が浜松城から三方ヶ原に誘き出されて惨敗し、命からがら逃げ帰っている。その失敗を忘れないどころか、勝つためとあらば恥じることなく真似るという合理性が家康にはあったということだろう。
その家康は三方ヶ原での敗戦後、意気消沈した自分自身の姿を絵師に描かせている。「顰(しかみ)像」と呼ばれる絵だそうだが、今も名古屋の徳川美術館に残っているというから、家康の反省は徳川家の中で脈々と受け継がれて来たことになる。失敗を無駄にはしないという家康の哲学のようなものを感じさせる逸話だ。
家康は又、人一倍健康に留意し、自ら薬を研究し調合するなど長生きするための努力を惜しまなかったらしい。これも、幼い秀頼を残して亡くなった豊臣秀吉の失敗を見てのことではないか。だとすれば、他人の失敗からも貪欲に学ぶ姿勢を感じるし、徳川の世が300年続いたのは偶然ではなく、家康が可能な限り準備したからだろうと思えてくる。