佐藤 優さんが書かれた「十五の夏」が新聞で紹介されていた。佐藤さんは1975年、高校1年生の夏休みに、たった一人でソ連・東欧を旅行されている。当時はソ連も東欧も厚いヴェールに包まれた国だったし、そういう「遠い国々」を僅か15歳の少年が単独で旅行するのは決して容易ではなかった筈だ。それはどんな旅だったのだろう。又、15歳という多感な少年だった佐藤優さんにどんな影響を与えたのだろう。大いなる興味が湧き、直ぐに購入した。

 

 

いくつも印象深い出来事が出てくるが、その中から三つ選んだ。

 

①ハンガリーの古い紙幣。

佐藤少年は文通相手だったハンガリーのフィフィ少年を訪ね、その家庭と共に濃密な時間を過ごす。やがて別れの日が迫り、フィフィのお父さんが「面白いお土産をあげよう」とハンガリーの古い紙幣を取り出す。これが100兆、1000兆、1京、10京、100京、1000京ペンゲー(ペンゲーは当時の通貨。現在はフォリント)という「ゼロ」が延々と続く紙幣で、戦後、ハンガリーが経験した超ハイパーインフレを示すものだった。ハンガリーはドイツと共に敗戦国となり、ドイツよりもひどいインフレに見舞われていたのだ。お父さんの「朝と夕方でパンの価格が倍になっていた。紙袋に山のように紙幣を入れて買い物をした。又、タバコがお金の役割を果たした」という話から、佐藤少年も何か学んだに違いない。

 

②ポーランド人の男たちと。

ユースホステル近くの食堂で4人組のポーランド人から「家に来ないか」と佐藤少年は誘われる。ポーランド人の日常生活に興味があった佐藤少年は誘われるまま付いて行き、そこで温かい歓迎を受ける。4人は小学校から高校までの同級生で、そのうちの一人がその日、父親になる予定だったのだ。言葉は通じないが筆談や絵を描いて心が通じるようになり、男たちの一人はロシアのバルチック艦隊を破った東郷元帥の名を出して親日感情を表す。やがて「男の子誕生」の電話が入って一気に盛り上がるが、佐藤少年はその喜びようから、自分の父親も自分が生まれたことを知った時、同じように喜んだのかなと思いを馳せる。佐藤少年にとっては、国籍や国の体制は違っても、同じ人間だと実感できる素晴らしい出会いになったのではと思う。

 

③ルーマニアの税関で。

佐藤少年はルーマニアの税関で非常に厳しい入国審査を受ける。当時の日本では、1968年の「プラハの春」に軍事介入しなかったルーマニアは社会主義国の中では最も自由で、米国とも友好関係を維持している、という理解だったが、佐藤少年は税関職員から持参していた時計をねだられ、又、ホテルの予約では1泊97ドルという現地の人々からすれば1ヶ月か2ヶ月分の給与に相当する料金を払わされ、その上、空港から市内に向かうバスもタクシーもないことから、少しずつルーマニアに対する見方を変えて行く。恐らく、佐藤少年は自分の目で確かめる重要性を実感したのではないかと思う。

 

以上、特に印象に残った場面を書かせてもらったが、佐藤 優さんの記憶力には脱帽だ。今から40年以上も前の会話や食事の内容まで、事細かに覚えておられる。それから、佐藤少年にソ連・東欧行きを許されたご両親も大したものだと思うが、佐藤少年と一緒に映画を観たお父さんがこんなことをおっしゃっている。

 

「食事をするシーンを見ると、その国の人たちの生活が分かる。」

 

名言だと思うし、この一言が今も佐藤 優さんの中に生き続けているような気がする。