平尾誠二君が亡くなった。
彼のプレーを初めて生で見たのは、横浜で開かれた7人制の大会だったように思う。同志社のジャージに身を包んだ平尾君は立っているだけでカッコ良かったが、彼が正面タックルで敵の選手を仰向けに倒したときにはしびれてしまった。マスコミは彼が攻撃時に見せた華麗なステップばかりを取り上げるが、彼には身を挺して敵の攻撃を食い止める勇気や責任感があった。そのプレーを見て私は平尾君が好きになったが、彼がチームメートから信頼され、愛されたのも、そういう痛みや恐怖から逃げない姿勢をゲームや練習で見せたからだろう。
彼が神戸製鋼に入ってからのことだと思うが、同志社ラグビー部のOB会報にジャパンの遠征に参加した林、大八木、平尾のインタビュー記事を載せようということになった。何かの都合で大八木君とは電話がつながらなかったが、広報委員を代表して私が林君、平尾君と電話で話すこととなった。当時は携帯電話などなかったから、私は勤務先から電話するしかなかったが、回りの同僚たちは私の電話相手がジャパンの林選手や平尾選手だと分かったようで、ずっと聞き耳を立てていたらしい。インタビューが終わった後、同僚たちから言われたことを今も覚えている。
【林君との電話】
「ボルさん、林さんとの電話ではエライ興奮されてましたね。いったい何を話されていたんですか。もう、机を叩かんばかりの勢いで、ボルさん、顔が赤くなってましたよ。」
【平尾君との電話】
「ボルさん、何回も『なるほど』と言うたはりましたけど、ボルさんが聞き役に回るて珍しいですね。深~く何度も頷いたはりましたけど、平尾さん、何を話されていたんですか?」
こういう印象通りの会話で、林君との電話のあと、さて原稿を書こうとしたら、何を話していたのか全く記憶になかった。多分、インタビューという目的から外れ、低迷を始めていた同志社ラグビーについて語り、二人して熱くなってしまったのだろう。メモにも何も書き残していないから、後で大いに反省するのだが、電話を切るときは実に爽快な気分だった。林君はそういう情熱の塊のような男だ。これに対し、平尾君は私の質問の趣旨を理解し、分かり易い言葉で説明してくれた。残されたメモを見ると、それを順番につなぐだけで原稿になったから、私の立場やOB会報を読む人たちの反応まで配慮してくれたのだと思う。頭が良いだけでなく、周りの人たちに細かい心配りができる男だったのだろう。
彼は同志社に来ていなくとも一流のプレーヤーになれただろうが、彼が一流の指導者になれたのは、同志社に来たからではないかと思っている。同志社ラグビーは「自由」を標榜するが、岡先生は決してそれを分かり易い言葉で長々と説明はされなかった。だから、多くのプレーヤーが誤解し、又は中途半端な理解で終えてしまっていると思うのだが、その「自由」を最も良く理解し、元々の性格にもフィットしたのが平尾ではなかったかと思う。言わば、岡先生の一番弟子で、岡先生とは阿吽の呼吸で分かり合えたのではないか。その「自由」を、彼は神戸製鋼やジャパンのラグビーで試し、修正し、次を考えていたように思う。
頭の良い理論家でありながらハートも熱い男だったと思うから、一度は同志社ラグビーの監督をやって欲しかったと思う。それが実現できなかったことを残念に思う。
合掌。