寛永13年(1636年)、長崎の海上に人工の小島「出島」が完成する。ちょうどその頃、長崎・筑後町にお春という12才になる色白で美しい少女が住んでいたが、彼女の父親はオランダ人センテイ(イタリア人航海士との異説あり)で、長崎で知り合った日本の美しい娘との間にできた子供だった。ただ、娘はお春を産むと直ぐに亡くなり、センテイも自国へと戻ったため、お春は娘の父親である小柳理右衛門により育てられていた。

そのお春に災難が降りかかる。15才になったとき、理右衛門の家に役人が踏み込み、お春を無理やりさらっていく。実は前年に島原の乱があり、幕府は一段とキリシタンの取締りを強化していたのだ。お春はその犠牲になったと言える。お春はいったん平戸に送られ、同じ運命の三十余名と共にジャガタラ(ジャカルタ)へと流される。その一年後、お春から幼なじみのお辰の元に「日本こひしや、日本こひしや」で始まる望郷の念を切々としたためた手紙が届く。

ジャガタラお春

何と気の毒な、と思ったが、その後、20才になったお春は東インド会社事務員で長崎生まれのオランダ人、シモン・シモンセンと結婚し、これが玉の輿となる。シモンセンはやり手のビジネスマンで、お春は何人もの使用人にかしずかれて暮らすようになり、四男三女(うち三人は早世)に恵まれる。夫婦仲も睦まじかったようだ。

お春が48才のとき、最愛の夫が亡くなるが、お春は莫大な遺産を相続し、残された家族と何不自由なく暮らす。若くして故郷を離れたのは不幸だったと思うが、晩年は子や孫に囲まれ、幸福な日々であったと思いたいところだ。