裏表紙の宣伝コピーに好奇心をあおられた。

「日本史の中で登場し、現在まで名を残す人物たち。ある者はあふれる才能のゆえ、ある者は自らも予期しない運命の悪戯によって歴史の表舞台に躍り出ることになった。本書がスポットをあてたのは、そんな彼らが舞台から降りた後の知られざる軌跡・・・。彼らを待ち受けていた『その後の結末』とはどのようなものだったか。」

その後の結末

江戸無血開城の立役者である勝海舟、生き残った新撰組隊士、「命のビザ」を発給した杉原千畝、15才のとき海外追放となったジャガタラお春、「水戸黄門」徳川光圀、等々、約60人が取り上げられ、興味深い話が紹介されている。

「東海道中膝栗毛」は弥次郎兵衛と喜多八が品川を振り出しに東海道を下り、お伊勢参りの後、京都大坂を見物するという道中ものだが、これを書いた十返舎一九は元々は下級武士だったようだ。奉行所で書記を務めていたが、29才のとき、作家として身を立てたいと江戸に出てきて修行を重ね、38才のとき「東海道中膝栗毛」が大ヒットする。1802年のことだ。

当時の江戸は泰平を謳歌し、ひょうきんな弥次・喜多コンビが面白おかしく紹介する東海道の風物や人情に庶民はすっかり魅了される。続編を望む声が湧き上がり、翌年には第二編(箱根ー岡部)、翌々年には第三編(岡部ー舞阪)と、一九は毎年一編ずつ書き続け、完結編の第二十編が出るまで20年間続く。この一九が起こした東海道ブームだが、1830年頃には500万人がお伊勢参りをしたというから、当時の人口2700万人(公家と武家を除く)からすると庶民の5人に1人がお伊勢参りをしたことになる。

そんなベストセラー作家の一九だが、生来の酒好き、遊び好き、気前の良さから家の台所はいつも火の車だったそうだ。ある人が一九の家を訪ねると、家財道具はほとんど質に入っており、部屋の壁には白紙が貼られ、そこにタンスや床の間、鏡餅の絵まで描かれていたとのこと。ある年の正月には、年賀に来た客を無理やり風呂に入れ、その間に客の着物を拝借して年賀回りを済ませたという逸話もあるそうだ。

一九が亡くなったのは1831年、67才のときだが、死期を悟った一九は門弟を枕元に呼び、「死んでも湯灌せず着物も変えるな。このまま棺桶に入れ、必ず火葬にせよ」と遺言する。門弟が言いつけを守り、火葬にしたところ、凄まじい爆音が上がり、いくつもの花火が宙に飛び散ったという。一九は着物の下に花火を隠していたのだ。辞世の句は「この世をば どりゃおいとまに せん香の 煙と共に 灰左様なら」・・・自分の死も笑いでしめくくるとは立派だが、果たして幸せだったのかどうか気になるところだ。