約1年振りに大学ラグビー部のOB会に出席した。

関東在住OBが約20名出席していたが、私は上から数えて6番目で、一番若いOBは自分の息子でもおかしくない年齢だった。それが分かったときには少なからずショックを受けたが、私より若いOBの人たちが積極的に発言したことは予想外の収穫で大変心強く思った。
私自身は27才のときにOB会の活動に携わるようになり、OB会報の編集を担当することとなった。当時は同志社が大学選手権三連覇を達成した強い時代で、黙っていても原稿が集まったが、それが弱い時代を迎えるようになると原稿が集まらず、途端に編集に困るようになった。
止む無く、話題を現役以外に求め、さまざまな時代背景を持つOBにインタビューしたり、ライバル校のOBに同志社について語ってもらったりしてそこそこの好評を得たが、勝てない現役に私自身が業を煮やすようになり、記事の内容が次第に批判的なものになっていった。
ついには、指導者の方々を非難する過激な記事を書き、そのときばかりは大目玉を食らって除名騒ぎになってしまったが、それでも許されたのは、私を強く弁護下さった先輩が居られたからだろう。その先輩に感謝。今度は私自身がそういう先輩にならねばと思う。

関東在住OBが約20名出席していたが、私は上から数えて6番目で、一番若いOBは自分の息子でもおかしくない年齢だった。それが分かったときには少なからずショックを受けたが、私より若いOBの人たちが積極的に発言したことは予想外の収穫で大変心強く思った。
私自身は27才のときにOB会の活動に携わるようになり、OB会報の編集を担当することとなった。当時は同志社が大学選手権三連覇を達成した強い時代で、黙っていても原稿が集まったが、それが弱い時代を迎えるようになると原稿が集まらず、途端に編集に困るようになった。
止む無く、話題を現役以外に求め、さまざまな時代背景を持つOBにインタビューしたり、ライバル校のOBに同志社について語ってもらったりしてそこそこの好評を得たが、勝てない現役に私自身が業を煮やすようになり、記事の内容が次第に批判的なものになっていった。
ついには、指導者の方々を非難する過激な記事を書き、そのときばかりは大目玉を食らって除名騒ぎになってしまったが、それでも許されたのは、私を強く弁護下さった先輩が居られたからだろう。その先輩に感謝。今度は私自身がそういう先輩にならねばと思う。