毎週火曜日の夜は、所属している合唱団の練習に参加する。場所は、日曜日にバイオリンを弾かせてもらった音楽喫茶だ。到着すると一枚の写真を手渡された。

演奏前の紹介を受けているところだろうか。私を紹介下さっている上品な女性は音楽喫茶のオーナーであり、又、その音楽喫茶が主宰されている音楽教室の迪子先生だ。写真はどうやら同じ音楽会に出演されていた男声合唱カルテッドの方がわざわざ届けて下さったようだ。
その写真を手に奥の方に入って行ったら、音楽会に来て下さっていた合唱団の方々から「素晴らしい演奏だったよ」とか「もっとギーコギーコしているのかと思っていたけど、ちゃんと弾けているじゃない」とか「まだバイオリンの音色が残っているわよ」というお褒めの言葉を頂いた。いくつになっても褒められるのは嬉しいものだ。「いえいえ、とんでもないです」と恐縮し、口では否定しながらも表情はだらしなく緩んでいたに違いない。
その後、冷静になって振り返り、私の演奏を褒めて下さった方には二つの共通点があるように思った。一つは、私に好意を持って下さっていること。当たり前のことだが、どんなに頑張っても私はバイオリンの先生のように上手くは弾けない。では、皆さん何を褒めて下さったのかというと、それは技量や芸術性ではなく、私が積み重ねてきた努力や簡単には諦めなかった挑戦意欲だろう。すなわち、私の良い点にフォーカスして好意的に見て下さっているのだ。
もう一つは、こちらの方が重要だと思うが、精神的に豊かな人たちだということだ。人を褒めるには相手に対する関心を持ち、その上で喜んでもらおうというサービス精神が必要だ。しかし、私にも経験があるが、そういう心の余裕がないと、筋違いの対抗意識やつまらないジェラシーなどネガティブな感情に負けてしまい、なかなか人のことは褒められないものだ。要は、精神的にケチな人には他人を褒めることはできないということだと思う。
私の幸運は、そういう人を褒めることができるオトナの人たちに囲まれて育ったということだろう。両親、学校の先生、そして社会に出てからお世話になった先輩の方々。しかし、そういう私もそろそろ褒められる側から褒める側に回らねばならないのかなと最近思う。心して周りの人を褒められるオトナになりたいと思う。

演奏前の紹介を受けているところだろうか。私を紹介下さっている上品な女性は音楽喫茶のオーナーであり、又、その音楽喫茶が主宰されている音楽教室の迪子先生だ。写真はどうやら同じ音楽会に出演されていた男声合唱カルテッドの方がわざわざ届けて下さったようだ。
その写真を手に奥の方に入って行ったら、音楽会に来て下さっていた合唱団の方々から「素晴らしい演奏だったよ」とか「もっとギーコギーコしているのかと思っていたけど、ちゃんと弾けているじゃない」とか「まだバイオリンの音色が残っているわよ」というお褒めの言葉を頂いた。いくつになっても褒められるのは嬉しいものだ。「いえいえ、とんでもないです」と恐縮し、口では否定しながらも表情はだらしなく緩んでいたに違いない。
その後、冷静になって振り返り、私の演奏を褒めて下さった方には二つの共通点があるように思った。一つは、私に好意を持って下さっていること。当たり前のことだが、どんなに頑張っても私はバイオリンの先生のように上手くは弾けない。では、皆さん何を褒めて下さったのかというと、それは技量や芸術性ではなく、私が積み重ねてきた努力や簡単には諦めなかった挑戦意欲だろう。すなわち、私の良い点にフォーカスして好意的に見て下さっているのだ。
もう一つは、こちらの方が重要だと思うが、精神的に豊かな人たちだということだ。人を褒めるには相手に対する関心を持ち、その上で喜んでもらおうというサービス精神が必要だ。しかし、私にも経験があるが、そういう心の余裕がないと、筋違いの対抗意識やつまらないジェラシーなどネガティブな感情に負けてしまい、なかなか人のことは褒められないものだ。要は、精神的にケチな人には他人を褒めることはできないということだと思う。
私の幸運は、そういう人を褒めることができるオトナの人たちに囲まれて育ったということだろう。両親、学校の先生、そして社会に出てからお世話になった先輩の方々。しかし、そういう私もそろそろ褒められる側から褒める側に回らねばならないのかなと最近思う。心して周りの人を褒められるオトナになりたいと思う。