集団的自衛権に関するニュースや記事が紙面を賑わしている。昨日は「集団的自衛権と憲法との関係に関する1972年の政府見解を根拠に、内閣が憲法の解釈を変更する方針を固めた」という記事を読み、少し考えさせられた。
1972年の政府見解とは、外国による武力攻撃で国民の権利が根底から覆される事態に対処すべく、「必要最小限度の範囲」で自衛権を行使できる、としたものとのこと。この慎重な言い回しからして、戦争放棄を謳った平和憲法を尊重し、たとえ攻撃を受けた場合でも必要最小限の反撃しかしないという頑なで、見方によっては悲愴感漂う決意を読み取ることができる。
問題は、この自衛権には個別的自衛権と集団的自衛権があり、従来は個別的自衛権のみを指していたと思われる自衛権に集団的自衛権も含まれているという解釈に変更しようとする姿勢だ。これを認めれば、同盟国が攻撃を受けた場合は自国への攻撃と見なし、共同で戦うということになる。集団的自衛権を掲げる方が攻撃に対する抑止力を高めるようにも思えるが、実際に米軍がどこかで攻撃を受けた場合には、その時点で日本も参戦することになってしまうのだろうか。これは実に難しい問題だと思う。
一つ、救われた気分になったのは、この集団的自衛権がクローズアップされてから、憲法改正に賛成という人の比率が減ったことだ。これは「憲法の改正を論じ、自らの手で憲法を作り上げることには賛成、しかし、憲法改正ではなく、その解釈を変更するだけで集団的自衛権を是とするのは危険」と感じ始めた人が増えているということではないか。
サッカーに例えれば、憲法が認めた自衛権とはゴールを守るゴールキーパーそのもので、ゴールを割られる危険性があるときは手を(武力を)使って良い。但し、手を使って良いのはペナルティ・エリア内に限定されている。更に言えば、ゴールキーパーはペナルティ・エリアから出てはならない。そういう風に定めたのが憲法で、国民の多くもそのように感じているのではないだろうか。
レフェリーがルールの解釈を変更して笛を吹き始めたら、フィールド内は大いに混乱し、プレーヤーだけではなく、観客も「こんな筈ではなかった」と思える展開もあり得るだろう。どうも、この流れは危険だ・・・そう感じる人が増えているなら、そういうバランス感覚こそ、この悩ましい時代に必要とされているものかなと思う。

1972年の政府見解とは、外国による武力攻撃で国民の権利が根底から覆される事態に対処すべく、「必要最小限度の範囲」で自衛権を行使できる、としたものとのこと。この慎重な言い回しからして、戦争放棄を謳った平和憲法を尊重し、たとえ攻撃を受けた場合でも必要最小限の反撃しかしないという頑なで、見方によっては悲愴感漂う決意を読み取ることができる。
問題は、この自衛権には個別的自衛権と集団的自衛権があり、従来は個別的自衛権のみを指していたと思われる自衛権に集団的自衛権も含まれているという解釈に変更しようとする姿勢だ。これを認めれば、同盟国が攻撃を受けた場合は自国への攻撃と見なし、共同で戦うということになる。集団的自衛権を掲げる方が攻撃に対する抑止力を高めるようにも思えるが、実際に米軍がどこかで攻撃を受けた場合には、その時点で日本も参戦することになってしまうのだろうか。これは実に難しい問題だと思う。
一つ、救われた気分になったのは、この集団的自衛権がクローズアップされてから、憲法改正に賛成という人の比率が減ったことだ。これは「憲法の改正を論じ、自らの手で憲法を作り上げることには賛成、しかし、憲法改正ではなく、その解釈を変更するだけで集団的自衛権を是とするのは危険」と感じ始めた人が増えているということではないか。
サッカーに例えれば、憲法が認めた自衛権とはゴールを守るゴールキーパーそのもので、ゴールを割られる危険性があるときは手を(武力を)使って良い。但し、手を使って良いのはペナルティ・エリア内に限定されている。更に言えば、ゴールキーパーはペナルティ・エリアから出てはならない。そういう風に定めたのが憲法で、国民の多くもそのように感じているのではないだろうか。
レフェリーがルールの解釈を変更して笛を吹き始めたら、フィールド内は大いに混乱し、プレーヤーだけではなく、観客も「こんな筈ではなかった」と思える展開もあり得るだろう。どうも、この流れは危険だ・・・そう感じる人が増えているなら、そういうバランス感覚こそ、この悩ましい時代に必要とされているものかなと思う。
