8年前、「のだ初」さんという鶏卵の生産販売会社が「卵」にまつわるエピソードを募集されていた。最初は何気なく見ていた募集要項だが、しばらくする内に父との思い出がよみがえり、直ぐにそれを書きとめた。入選するとは思っていなかったが、応募したら「佳作」に選ばれ、そのときは天国の父が裏から(空から?)手を回してくれたのかなと思ったのを覚えている。
「たまごかけご飯」
ある夜、食卓に一人ポツンと座る私。そこに父が帰宅。「どないした?お母ちゃんは?」と父が尋ね、「おばあちゃんのお見舞いに行かはった。ちょっと帰りが遅くなるみたいや」と私が答える。「晩ご飯は?」と父が聞き、「未だやねん。お腹空いた」と私が訴える。私が小学校1、2年生の時のことだと思う。
父は冷蔵庫を開け、大きく一つ頷くと、次に炊飯器を取り出し、お米を洗い始めた。「めちゃめちゃ美味しいもんを食わしたる。ご飯が炊けるまで勉強しとけ」という父の言葉に安心し、二階の勉強部屋に上がると宿題を始めた。小一時間すると階下から私を呼ぶ父の声がする。おかずは何やろう、と下に降りて行くと、食卓には湯気を立てているご飯、小さな椀に生卵が一個、そして小皿に味付海苔が盛られている。「何やこれ?」という私の怪訝な表情を無視して、父は卵を割り、器用に箸でかき混ぜ始める。見る見る内に黄身と白身が混ぜ合わさって細やかな泡が立ち、柔らかなクリーム色に変わっていく。
「何してるねん、お前もさっさと卵を割って混ぜんかい」と言われるまま卵を手にしたが、考えてみると、それまで卵を割ったことが一度もなかった。見よう見真似で卵を割り、箸でかき混ぜるが、黄身と白身がうまく混ざらず泡も全く立たない。父はというと、次にお醤油を注ぐと、さらっと混ぜ合わせ、湯気を立てているご飯の真ん中に箸で穴を開けると、そこに卵を箸伝いに注ぎ入れた。軽くご飯をかき混ぜると、お醤油の香りが広がり、お腹がグーっと鳴った。父は一口ご飯を口に入れると「うまい!」と僕を見てニッコリ微笑む。
「お前もやってみぃ」と父に言われ、卵をご飯に注ごうとしたが、黄身と溶け合っていない白身がドロっと入り、父とは少し様相が違うご飯になったが、何より自分で完成させたことが嬉しく、僕もご飯を口に運ぶと「ホンマや。うまい!」と父に微笑み返した。「海苔でご飯を巻くと、更に美味しい」と父は海苔を一枚ご飯の上に置くと、箸で器用にご飯を包んで口に運んだ。同じように真似る。パリッとした海苔の歯応えに柔らかなご飯の感触、卵の甘み、お醤油の香りが口の中に広がり、すっかり幸せな気分になった。
思い返せば、卵を割ったこともなかった少年が、今は亡き父に導かれ、大人の世界にちょっと足を踏み入れた夜だったのかなと思う。

