ご注意!!![]()
この「ヘンリー・モルガンのお話し」は
か~なり長ったらしい記事です。
興味のナイ方は読み飛ばしちゃって下さいネ。
「そこまで云うんなら最後まで付き合ってやろうじゃないか!!」
と仰る方は気長~な気持ちでお読み下さいマセ m(u_u)m
前回のお話しは こちら
パナマ市攻防戦
1671年1月27日パナマ城外でモルガンはポルト・ベリョ以来の因縁浅からぬホアン・ペレス・グスマン(Don Juan Pérez de Guzmán)率いる守備兵と会敵します。
スペイン軍は歩兵・騎兵合わせて2800人、動員比3:1の有利な戦力で野戦決戦を挑みましたが、機動力を活かしたモルガンは巧みに部隊を操り数時間の戦闘の後、守備隊を市内に潰走させます。
28日にモルガンが海賊達を率いて、マタデーロ橋(プエンテ・デル・マタデーロ Puente del Matadero)から市内に突入すると、ほぼ同時にパナマ市内で原因不明の火災が発生します。異説もありますが、住民か守備隊が財宝を取られるぐらいならと、焦土作戦を取ったようです。(この火災はモルガン達が撤収する一ヵ月後もまだ鎮火しなかったそうです)
モルガン達は激戦の末、守備隊を倒し、市街の西外れに設立されていたメルセル会の男子修道院メルセー修道院(コンベント・デ・ラ・メルセー Convento de La Merced)を根城とし1ヵ月に渡って市街を占拠、金銀を掠奪します。そして、市街を徹底的に破壊しました。(スペインは街の復興を諦め、約11km西南西に 現パナマ市=カスコ・ビエホCasco Viejoを一から作り直すハメになりました)
このまま太平洋岸の都市襲撃を継続すべきだとする海賊達の意見具申を拒絶し、2月24日、戦利品を載せた175頭のラバと身代金を当て込んで連行した600人の捕虜を連れパナマを撤収します。
3月9日にサン・ロレンツォ要塞に到着し、ここで海賊達はモルガンから戦利品の分配を受けます。しかしスペイン側が予め大方の金銀をパナマから避難させた為、激戦の割に分け前は少なく、海賊達の間でモルガンが着服しているのではないかという噂が流れます。
不穏な空気に命の危険を感じたモルガンはナント、部隊を放置して、少数の部下と共にさっさとジャマイカにバックレちゃいます。
復興出来ない程パナマ市を破壊されて、業腹のスペインはイングランドに「条約違反だろ!!怒」と抗議、イングランドも査問の為、モルガンとモディフォード卿を本国に召喚します。
しかし「エーッ、だってパナマ攻撃の時はマドリード条約の事なんかゼンゼン聞いていませんでしたァ」と嘘吹く2人の弁解がアッサリ通り、形だけのお咎めとなりました。
モディフォード卿はロンドン塔に収監が決まりますが、実際は受刑していないようです。収監期限が過ぎた2年後にはジャマイカの司法判事の肩書きで自分のプランテーションで楽隠居を決め込みます。
モルガンの方も自由なロンドンの3年間を満喫した1674年、国王チャールズ2世から「忠節、分別、勇気およびジャマイカ植民地における長い経験に深い信頼をよせる」と、スペインが聞いたら呆れ返るぐらいベタ褒めされ、1674年11月ジャマイカ島副総督代行兼海軍提督とナイトの位を贈られジャマイカ島に返り咲きます。
王室とジャマイカの「ズブズブの関係」が察せられます。
次回は私掠船船長を廃業し表舞台で活躍するモルガン最晩年のお話しです。 (つづく
)
(この記事は独自の解釈や推測が含まれています。
定説と一部異なり、また、確定していない内容をも
含んでいます。予め、ご了承下さい。)
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