ショットバー ブートレッガー SENGAWA BAR HOPPIN' -14ページ目

ショットバー ブートレッガー SENGAWA BAR HOPPIN'

BAR HOPPIN'とは・・・・バー巡りのコト
あなたは今夜、どこで呑みますか?
ブートレッガーは仙川の南の端ッコのショットバーです
ブートの酒番が、あんなコトやこんなコトをブログにアップしてますw

ご注意!!注意

この「ヘンリー・モルガンのお話し」は

か~なり長ったらしい記事です。

興味のナイ方は読み飛ばしちゃって下さいネ。

「そこまで云うんなら最後まで付き合ってやろうじゃないか!!」

と仰る方は気長~な気持ちでお読み下さいマセ m(u_u)m

前回のお話しは こちら


パナマ市攻防戦

1671年1月27日パナマ城外でモルガンはポルト・ベリョ以来の因縁浅からぬホアン・ペレス・グスマン(Don Juan Pérez de Guzmán)率いる守備兵と会敵します。

スペイン軍は歩兵・騎兵合わせて2800人、動員比3:1の有利な戦力で野戦決戦を挑みましたが、機動力を活かしたモルガンは巧みに部隊を操り数時間の戦闘の後、守備隊を市内に潰走させます。


28日にモルガンが海賊達を率いて、マタデーロ橋(プエンテ・デル・マタデーロ Puente del Matadero)から市内に突入すると、ほぼ同時にパナマ市内で原因不明の火災が発生します。異説もありますが、住民か守備隊が財宝を取られるぐらいならと、焦土作戦を取ったようです。(この火災はモルガン達が撤収する一ヵ月後もまだ鎮火しなかったそうです)
SENGAWA BAR HOPPIN'
モルガン達は激戦の末、守備隊を倒し、市街の西外れに設立されていたメルセル会の男子修道院メルセー修道院(コンベント・デ・ラ・メルセー Convento de La Merced)を根城とし1ヵ月に渡って市街を占拠、金銀を掠奪します。そして、市街を徹底的に破壊しました。(スペインは街の復興を諦め、約11km西南西に 現パナマ市=カスコ・ビエホCasco Viejoを一から作り直すハメになりました)


このまま太平洋岸の都市襲撃を継続すべきだとする海賊達の意見具申を拒絶し、2月24日、戦利品を載せた175頭のラバと身代金を当て込んで連行した600人の捕虜を連れパナマを撤収します。

3月9日にサン・ロレンツォ要塞に到着し、ここで海賊達はモルガンから戦利品の分配を受けます。しかしスペイン側が予め大方の金銀をパナマから避難させた為、激戦の割に分け前は少なく、海賊達の間でモルガンが着服しているのではないかという噂が流れます。

不穏な空気に命の危険を感じたモルガンはナント、部隊を放置して、少数の部下と共にさっさとジャマイカにバックレちゃいます。 


復興出来ない程パナマ市を破壊されて、業腹のスペインはイングランドに「条約違反だろ!!怒」と抗議、イングランドも査問の為、モルガンとモディフォード卿を本国に召喚します。


しかし「エーッ、だってパナマ攻撃の時はマドリード条約の事なんかゼンゼン聞いていませんでしたァ」と嘘吹く2人の弁解がアッサリ通り、形だけのお咎めとなりました。


モディフォード卿はロンドン塔に収監が決まりますが、実際は受刑していないようです。収監期限が過ぎた2年後にはジャマイカの司法判事の肩書きで自分のプランテーションで楽隠居を決め込みます。


モルガンの方も自由なロンドンの3年間を満喫した1674年、国王チャールズ2世から「忠節、分別、勇気およびジャマイカ植民地における長い経験に深い信頼をよせる」と、スペインが聞いたら呆れ返るぐらいベタ褒めされ、1674年11月ジャマイカ島副総督代行兼海軍提督とナイトの位を贈られジャマイカ島に返り咲きます。


王室とジャマイカの「ズブズブの関係」が察せられます。


次回は私掠船船長を廃業し表舞台で活躍するモルガン最晩年のお話しです。 (つづく )

(この記事は独自の解釈や推測が含まれています。

定説と一部異なり、また、確定していない内容をも

含んでいます。予め、ご了承下さい。)


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前回のお話しは こちら


パナマ・ビエホ襲撃作戦の始動

1970年8月1日、モディフォード卿はモルガンを「当港(ポート・ロイヤル)に属するすべての戦闘用船舶の総司令官」に任命。ジャマイカ防備をモルガンに一元化します。

更に艦船のみならずスペインの陸上施設への攻撃を大っぴらに許可します。

マドリード条約の発効には1年の猶予期間が設定されていました。このタイムラグを突いて35歳のモルガンはプライヴェーティアとしての総仕上げ、条約違反ギリギリの大博打を打ちます。

イスパノアメリカ(新大陸のスペイン領) の都市への最後の積極攻勢策動です。


ジャマイカが公式に領有出来れば、もはや裏ワザの私掠行為など使う必要はないハズです。しかし、土壇場で稼げるだけ稼いで、王室に納税すれば、訓告は受けるでしょうが、イングランド内でマドリード条約施行後もモディフォード卿とモルガンの発言力は維持されます。

海賊キャリア15年のモルガンは結果が手段を正当化する事を熟知していました。


1670年年10月24日ヘンリー・モルガンの呼びかけで、カリブの海賊船37隻と2000人の海の荒くれ者がエスパニョーラ島に集結します。

カルタヘナ(Cartagena) ベラクルズ(Veracruz) も候補に上がりましたが、モルガンの提案を受け“あの”フランシス・ドレイクも成し得なかったパナマ市(パナマ・ビエホ=Panamá Viejo)襲撃に決定します。

パナマ市襲撃が決定すると、海賊達のシキタリに沿ってモルガンが総指揮官に選出されました。



SENGAWA BAR HOPPIN' パナマ市はパナマ地峡の太平洋側に面し、新大陸で産出する60%の金銀が集積される人口12,000の都市として、中米スペイン植民地の政治、経済の中心地でした。しかしながら、狭い海岸線に建物がひしめき合う地の利の悪さから、城砦化が出来ず後背地の森林を頼りにした脆弱な防御施設しか持っていませんでした。


1670年12月6日抜錨。モルガン達は、12月15日サンタ・カタリナ島(Santa Catalina ニカラグアの沖合約240km)を本作戦の橋頭堡として占領します。(サン・アンドレス島San Andrés、 プロビデンシア島Providenciaとの説もあります) かつて大先輩マンスヴェルトが主張した戦術に則り、長期遠征に必須の糧食や飲料水の兵站地、また損傷した船を修繕出来る安全な後方支援用停泊地として確保したのです。


ここで攻略部隊を編成、カリブ海に注ぐチャグレス川河口のサン・ロレンツォ要塞に向け出航します。

この要塞を攻略すれば、川を遡上しパナマ市まで打通出来ます。

12月27日サン・ロレンツォ要塞で激戦を展開。旗艦サティスファクション号 (the Satisfaction)を含む5隻を損耗しながらも、これを攻略します。

1671年1月18日要塞に守備兵300人を残してボートとカヌーに約1200人が分乗し、チャグレス川を遡上開始します。

兵站のミスで遡上途中の1月21日から食料が不足したり、23日には原住民の襲撃など困難に見舞われますが、25日に入ると、200人の先遣隊をパナマ市に先行させます。

そして遂に1671年1月26日、パナマの街を見下ろす(現在バッカニアの丘と呼ばれる)丘に本隊が到着します。9日間の行軍で消耗し切っていたハズの海賊達は街に聞こえる事も構わず歓声を上げ、太鼓やラッパを鳴らして喜び合いました。

決戦の秋が来ました。 (つづく )


(この記事は独自の解釈や推測が含まれています。

定説と一部異なり、また、確定していない内容をも

含んでいます。予め、ご了承下さい。)


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前回のお話しは こちら


オックスフォード号事件

ポルト・ベリョ攻略から程無くして英本国からキャノン砲36門搭載のフリゲート艦オックスフォード号(the HMS Oxford)がポート・ロイヤルに配備されます。

ポルト・ベリョ攻略の恩賞として、そしてジャマイカ防衛の為でした。モルガンはモディフォード卿の期待に答えるべく、新たな獲物の策定に取り掛かります。


1669年エスパニョラ島地先の小島バチェス島(Isla de Vaches)の“ポート・モルガン”に多くの海賊達が参集して、オックスフォード号艦上でコロンビアのカルタヘナ攻撃計画が立てられました。


会議の後、酒宴が開かれます。しかし泥酔した船員が誤って艦内の火薬を暴発させ、多くの海賊達が死亡します。モルガンは軽傷で済みましたが、生き残った海賊達は出陣前の事故を不吉な前兆と捉え、作戦に参加を表明した海賊は10隻と800人になっていました。


マラカイボ襲撃遠征航海

それでも1669年3月にモルガンは攻撃を強行しようと出帆しますが、求心力が低下し脱落する船が続出し、航行途中に総数が500人まで減少しました。モルガンはカルタヘナ攻撃に不足な人数を前に、三年前に襲撃経験のあるフランス人海賊の意見を入れ、攻撃目標をヴェネズエラのマラカイボに変更します。


SENGAWA BAR HOPPIN' 1669年3月、マラカイボ湖(カリブ海に繋がるヴェネズエラ湾と細い水路で繋がった塩湖)内のマラカイボ(Maracaibo)とジブラルタル(Gibraltar)を襲撃、莫大な財宝(8レアル銀貨25万枚相当との説もあります)を手に入れます。


4月30日、モルガンの船団がジャマイカに帰還すべくマラカイボ湖から外海に出ようとすると湾口を封鎖する強力な武装を持つスペイン艦3隻と会敵します。

モルガンは降伏か攻撃か海賊達と合議し、攻撃を選択します。海賊艦隊の一隻に人形で人が乗っている様に偽装し、火薬を満載した船をスペイン艦隊の旗艦ラ・マグダレーナ号(Le Magdalena)に激突させ大火災を起こさせます。旗艦を失い混乱した随伴艦二隻も攻撃によって返り討ちにし、無防備となった湾口を突破しました。SENGAWA BAR HOPPIN'

奇略を用いて正規艦を海賊船が一度に三隻倒した事は、モルガンらしい武勇伝とされています。

5月14日モルガンがジャマイカに帰還すると、カルタヘナからマラカイボに攻撃目標を勝手に変更した事はモディフォード卿にたしなめられましたが罰が与えられることはありませんでした。

モルガンは暫らくの間、自分の農場で妻とノンビリ暮らします。


マドリード条約の締結

1670年7月に欧州本土でイングランドとスペインの間にマドリード条約(Treaty of Madrid)が締結されます。

イングランドにカリブでの交易を正式に認め、バーターに海賊行為を取り締まらせる方がスペインは得策だと考えたのです。

ついにイングランドはスペインにジャマイカ攻略作戦を投了させ、島の領有を認めさせた事になります。

モルガン達はジャマイカ島を守り抜きました。


本国から条約の締結の訓令がすぐにジャマイカにも届いたハズですが、モディフォード卿とモルガンは黙殺します。

プエルト・プリンシペ、ポルト・ベリョ、マラカイボと重要拠点に甚大な被害を受けたスペインの報復攻撃を想定した2人は条約締結から施行までの空白の時間を利用して、先手を打ちます。 (つづく )


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