ショットバー ブートレッガー SENGAWA BAR HOPPIN' -15ページ目

ショットバー ブートレッガー SENGAWA BAR HOPPIN'

BAR HOPPIN'とは・・・・バー巡りのコト
あなたは今夜、どこで呑みますか?
ブートレッガーは仙川の南の端ッコのショットバーです
ブートの酒番が、あんなコトやこんなコトをブログにアップしてますw

ご注意!!注意

この「ヘンリー・モルガンのお話し」は

か~なり長ったらしい記事です。

興味のナイ方は読み飛ばしちゃって下さいネ。

「そこまで云うんなら最後まで付き合ってやろうじゃないか!!」

と仰る方は気長~な気持ちでお読み下さいマセ m(u_u)m

前回のお話しは こちら


キャプテン・モルガン・ラムのラベル

私掠船団長=プライヴェーティアとしてデヴューしたモルガンは10隻の船を掻き集め、乗艦する海賊達を他の海賊頭目とは違ったやり方で募ります。

危険の多い作戦だけに、普通に布告を出して参加を募っては海賊達が尻込みし集まらないからです。


SENGAWA BAR HOPPIN'

彼は高価な赤いシルクの服に金銀宝石を身につけ、いかに自分が成功者であるか見せ付けつつポート・ロイヤルを練り歩き、海賊達の間にその姿が口コミで広がることを計算して参加を呼びかけたのです。


“俺に付いて来ればお前達も同じように一攫千金のチャンスを手に入れる事が出来るぞ”と云う無言のアッピールをした訳です。


このアイディアは功を奏し、彼はカリブ海域の中でも最も優秀な500人の海賊を獲得しました。


お馴染みのキャプテン・モルガン・ラムのラベルに描かれた赤い服のモルガンはこの時の逸話を元に描かれているのではないでしょうか?



プエルト・プリンシペ遠征

1668年2月、ヘンリー・モルガンはキューバ島中央の街プエルト・プリンシペ(Santa Maria del Puerto del Principe 現カマグウェイCamaguey)に出帆します。
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結果からすると襲撃は戦略的成果が不十分に終わりました。敵に襲撃が露呈してしまい、殆どの住民や財宝も街から姿をくらました為、ジャマイカ攻撃の情報を捉える事が出来なかったばかりでなく、大した“上がり”も手に入らず海賊達の不満はくすぶりました。


ポルト・ベリョ攻略

この為に新大陸スペイン領第三の都市のポルト・ベリョ(Portobello)(現パナマ共和国コロン県Colón Province)強襲が策動されます。モルガンはプエルト・プリンシペ遠征の失敗と海賊同士のトラブル(イングランド人海賊とフランス人海賊の分け前を巡る事件)で十分な海賊が集まらないまま(9隻の船に460人の海賊)、攻撃に向かいます。


ポルト・ベリョはスペインに向けて新大陸の金銀財宝を出荷する一大集積港湾でした。この為、スペイン側も海賊の攻撃を想定し、都市は3つの堅固な砦に守られた「難攻不落の」要塞でした。

しかし、モルガンは1668年7月薄暮攻撃でまず一つ目のサンティアゴ(Santiago)砦を奪取、2つ目のサン・ヘロニモ(San Jerónimo)砦を激しい攻防の末陥落させ、3つ目のサン・フェリペ(San Felipe)砦をアッサリ降伏に追い込みます。ポルト・ベリョは15日間に亘り占拠、略奪され、戦利品が海賊達の規則に従って分配されました。


ジャマイカ攻撃に関する情報は手に入らなかったようですが、モルガンは難攻不落のポルト・ベリョを陥落させた事で、その名をカリブ中の敵や味方、海賊達に知らしめました。


私掠免許状は艦船襲撃にのみ発給されており、スペイン植民都市への攻撃は厳に戒められていましたが、モルガンもモディフォード卿もジャマイカ防御にはスペイン植民都市への襲撃が効果的だと再確認します。

神出鬼没の海賊の襲撃にスペイン各植民都市は守備兵力を割かざるを得なくなり、結果、ジャマイカ攻撃の動員余力が無くなるからです。


海賊達にスペイン領へのさらなる攻撃が求められます。 (つづく )


(この記事は独自の解釈や推測が含まれています。

定説と一部異なり、また、確定していない内容をも

含んでいます。予め、ご了承下さい。)


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ご注意!!注意

この「ヘンリー・モルガンのお話し」は

か~なり長ったらしい記事です。(今回が最終章です)

興味のナイ方は読み飛ばしちゃって下さいネ。

「そこまで云うんなら最後まで付き合ってやろうじゃないか!!」

と仰る方は気長~な気持ちでお読み下さいマセ m(u_u)m

前回のお話しは こちら


バッカニア=沿岸の同胞達

バッカニアは7~8人の小集団で行動し、燻製肉作りが出来ない雨季は海賊行為、密輸なども“生業”にしていたようです。


1630年頃スペインはバッカニアを不法移入者達であるとして掃討を画策。牛や豚を屠殺し収入源を絶ち、バッカニアも捕縛次第殺傷します。更に兵士を常駐させ洋上の海賊の帰還を阻止しました。

生き残ったバッカニアはスペインの強硬手段に抗しきれず、エスパニョーラ島の北岸沖にあるトルトゥーガ島 (Isla Tortuga)に移住しスペインの艦船や植民地を襲う「海賊」を本業にし始めます。

皮肉にもスペインは自ら災いの種を生み出した事になります。
SENGAWA BAR HOPPIN' バッカニア自身は、自らを「沿岸の同胞達」と名乗りました。エスクェメリンによると、海賊船に乗り組む為には「沿岸のしきたり」と呼ばれる誓約書に従う必要がありました。

誓約書には「全員が守るべき規約と義務」、「利益の分配方法」「利益が無ければ収入無し"no prey, no pay"の原則」が記されていました。

誓約書へのサインはマテロタージ(matelotage)と相棒のマテロツ(matelots)と呼ばれるバディを組んで行われ、遺言書の意味もありました。

バッカニアにとって最も気になる「利益の分配方法」ですが、略奪品は戦闘終了後、一ヶ所に集められて規定に従って分配されました。

分配は遠征の全利益から(私掠船なら税引き後の利益から) まず負傷者への補償が最優先され、負傷の度合いによって等級化されていました。残高をそれぞれの能力や役割に応じて全員に配分、船長は乗組員の5~6倍が取り分でした。

また、死亡した場合は、バディか、故人の縁戚、または(馴染みの売春宿の御姐チャンなど)法定相続人に分配されました。


海賊たちは略奪品の私物化を厳に戒められており、禁を破った者は追放処分を受けました。しかし何らかの理由で「入用」の仲間には皆で融通する事が美徳ともされました。


エスクェメリンが事細か~く掠奪品の分け方を著書に記しているのは、何とな~くパナマでモルガンに置いてけぼりを喰らった事への“恨み節”に聞こえなくもないですが、彼の著作「アメリカのバッカニア」に、海賊達の結束力や信頼関係が詳細に記述されているのは確かな様です。


重商主義時代の仇花、ヘンリー・モルガンと海賊(バッカニア)にまつわるお話しはこれにておしまいです。


長々とした記事にお付き合い頂きありがとうございました。m(u_u)m


(この記事は独自の解釈や推測が含まれています。

定説と一部異なり、また、確定していない内容をも

含んでいます。予め、ご了承下さい。)


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