ご注意!!![]()
この「ヘンリー・モルガンのお話し」は
か~なり長ったらしい記事です。
興味のナイ方は読み飛ばしちゃって下さいネ。
「そこまで云うんなら最後まで付き合ってやろうじゃないか!!」
と仰る方は気長~な気持ちでお読み下さいマセ m(u_u)m
前回のお話しは こちら
ジャマイカ副総督代理 ヘンリー・モルガン
ジャマイカに舞い戻ったモルガンは副総督代理、海軍提督、ポート・ロイヤル連隊長、海事裁判所長、治安判事など行政の幾つかの要職を兼任します。海賊の取締りに対しては、「三ヶ月以内に海賊を廃業した者には土地を与えるが、廃業しない者は絞首刑にする」と最終通告を出します。イングランドはマドリード条約遵守の為、足手まといになった海賊を見切る“汚れ仕事”を元海賊、モルガンに託したのです。
もっとも、モルガンも心得たもので、裏では御法度だった私掠免許状を発行して“昔馴染みの仲間達”からマージンを貰って見逃していたようですが。
モルガンはジャマイカ副総督代理を1674年9月~1675年、1678年、1680年~1682年の3回、通算6年勤めます。特に1679年9月2日、還暦のモディフォード卿が亡くなると名実共にジャマイカの最高権力者となります。
一介の年季奉公人だった少年は45歳にして立志伝中の人物となったのです。
しかし、モディフォード卿という“風除け”がいなくなった事で皮肉にも“成り上がり”のモルガンへの当たりが強くなったようです。本国から派遣される毛並みの良い官吏達は彼を快く思わず、両者は事あるごとに対立していたようです。
特にモルガンがロンドンに呼び出しを喰らっている間ジャマイカを仕切っていたサー・トーマス・リンチ(Sir Thomas Lynch)とは犬猿の仲でした。リンチ卿は1681年にモルガンが海賊との関係を切らず役職を「私」している事をイングランド本国にチクりました。その為、翌年の1682年、モルガンは副総督代理を含む全ての役職を解任され公職追放処分になり、後釜にリンチ卿が副総督兼主席判事として座ります。
モルガンは表舞台から大人しく引っ込みます。
リンチ卿は1684年に亡くなりましたが、1687年にリンチ卿と“気脈を通じた”クリストファー・モンク(Christopher Monck) が赴任します。
この時、モンクが連れてきた27歳の奥さんの主治医ハンス・スローン(Dr. Hans Sloane)が太鼓腹で顔は土気色のモルガンを治療し、詳細な記録を残しています。
モルガンは、1681年頃から大酒呑みがたたり健康を損ねていたのです。それでもポート・ロイヤルの馴染みのバーで昔の仲間とラム酒を飲み交わすのがなによりの楽しみだったようです。
モルガンは1688年8月25日肝臓障害でこの世を去りました。“らしい”終末と云えば云える死に方です。
(ロンドン滞在中に結核に罹患したという説も有ります)
享年53歳でした。
アル中死とはいえ、葬儀は総督級だった様です。遺骸は彼がかつて寄進、建立したポート・ロイヤル近郊のセント・ピーターズ教会に埋葬されました。
同年末にはイングラン本国で名誉革命(Glorious Revolution)の成立により国王ジェームズ2世が追放されイングランド国政は議会が握りました。
モルガンの死と時を同じくする様に海賊とイングランド政府の蜜月は終わりを告げたのです。 (つづく
)
(この記事は独自の解釈や推測が含まれています。
定説と一部異なり、また、確定していない内容をも
含んでいます。予め、ご了承下さい。)
よろしかったらポチッと・・・・・
