まだまだ暑い、日本の夏である。
大人の夏休みに、今年は水木さんのエッセイを読んでみた。
水木しげるの「妖怪になりたい」と「なまけものになりたい」は、どちらも河出書房の水木しげるエッセイ集である。
▼水木しげる「妖怪になりたい」河出文庫2003
▼水木しげる「なまけものになりたい」河出文庫2003
水木さんのエッセイを収載している本としては既に下記のものがあり、エッセイについては重複している内容が多数あるので購入の際には注意されたい。
▼水木しげる「水木しげるのカランコロン」作品社1995
▼水木しげる「カランコロン漂泊記 新装版」小学館2010
水木しげるさんについては過去に、NHKの本紹介番組である「100分de名著」の記事で取り上げている。
漫画作品についてはこちらを参照されたい。
前回は「妖怪になりたい」の記事であったので、今回は「なまけものになりたい」の方から個人的に面白かったところを幾つか紹介したいと思う。
▼水木しげる「なまけものになりたい」河出文庫2003
鬼太郎秘話
水木さんといえば、やっぱり「ゲゲゲの鬼太郎」である。
大人気となる「ゲゲゲの鬼太郎」は、元々は「墓場の鬼太郎」という作品であり、その原型は戦争から帰ってきて食うために描いていた紙芝居作品である。
この流れそのものは、ファンの人にはまぁまぁ知られているだろうし、「100分de名著」の特集でも紹介されていたので、ここでは少々長いが水木さん本人の語りを引用したいと思う。
ちょうど兄貴の子供が三歳でませていたから、これが鬼太郎のモデルにちょうどいいやと思って、多少かわいいような丸顔になって、いくらか描きやすくなった。
なにしろ紙芝居は一巻十枚で、毎日十枚ストーリーを作ってやらなければいけないから大変だ。しかも最後に必ず、果して助かるだろうかというハラハラさせる場面で終らなくてはいけない。
鬼太郎の親父が目玉になった時も、親父が死んだのに親父の声がする、はて? それはなんでしょうといったようなことで前回終っているから、なんとかしてつじつまを合わさないといけない。
しかも、親父は溶けて死んでしまっているから、生き返せない。苦しまぎれに、目玉に親父の魂が宿ってポケットに入っていたということにしたため親父は常にポケットに入っていなければならなくなったわけだが、そんなことで鬼太郎の親父のアイディアは生まれた。すべてハプニングだった。
目玉といってもポケットに入っているのもぐあいが悪いので、貸本漫画を描く時、鬼太郎の片目の空いているところに入れることにし、全国をあてもなく旅する少年にしたわけだが、やはり退屈な話になりがちだった。
ねずみ男は紙芝居時代にもいたが、今のねずみ男とは違っていた。ねずみ男によく似た漫画家がいて、いつも努力しているのだがいつも貧乏していた。へこたれるかと思うと思いのほか元気でへこたれず、次々に漫画のアイディアは出さず金もうけのアイディアばかり出している男だったが、いつも金にはみはなされていたがへこたれないのだ。しかも顔もねずみ男そっくり、これだ!! と思ってやってみると、ねずみ男が生き生きしてきた。※水木しげる「なまけものになりたい」河出文庫2003, P9-11 より引用
このあたりのことが偶然とハプニングから生まれていたとはと驚いたが、使えるものは何でも使っていくような水木さんの創作魂もなかなかのものである。
更に、鬼太郎の性格づけと登場する妖怪達についてはこう書いている。
鬼太郎の性格に影響を与えたのは、『妖怪談義』の“一眼一足の怪”である。大昔から日本人は片目片足のものを神にささげていたから、片目片足のものは何か神がかった力を持っているといわれていたわけだから、片目だと何となく祖先の霊のゆるしを受けているみたいで、元気が出たわけである。
また、鬼太郎の敵に廻った妖怪は、主として鳥山石燕の『百鬼夜行』に出てくる妖怪たちである。鬼太郎の味方になった妖怪は『妖怪談義』の中に妖怪の名が五十ばかり出ていて短い説明があるが、その妖怪たちが味方になったわけだが、悪いことに『妖怪談義』の中の妖怪には形がない。そこでしかたなく祭りとかいろいろなものを調べたりして、自分で妖怪の形を作ったわけだけれども(たとえば子泣き爺とか、砂かけ婆など)むしろ、その方が愛嬌があってよかった。※水木しげる「なまけものになりたい」河出文庫2003, P11-12 より引用
この「妖怪談義」は柳田國男の著作で、この本への水木さんの感想については記事の後半を参照されたい。
▼柳田國男「妖怪談義」講談社学術文庫1977
※序文の執筆は昭和31年
「百鬼夜行」は改めて確認してみると、安永5年(1776年)の作であった!
▼鳥山石燕「図画百鬼夜行」Kindle版2015
安永5年(1776年)に刊行された鳥山石燕の妖怪画集。
『今昔画図続百鬼』『今昔百鬼拾遺』『百器徒然袋』とある石燕の妖怪画の中でも最初に刊行されたものであり、現代ではこの4つを総称して「画図百鬼夜行シリーズ」などとも呼ばれる。※上記バナーの Amazon 商品サイトより引用
なるほどねぇ。
あるものは使って、無いものは作るという水木さんの創作の妙を感じた次第である。
「河童の三平」の話
さて、鬼太郎の話が長くなってしまったが、これは大人気作品だから仕方あるまい。
この次の話は「河童の三平について」である。
この作品も「100分de名著」の特集で紹介されていて面白そうな作品であったので、ちょろっと書いておこうと思う。
まず、「河童の三平」はこんな話である。
▼水木しげる「河童の三平 上 貸本まんが復刻版」角川文庫2015
おじいさんと山奥で暮らす河童そっくりの三平少年は、ひょんなことから河童の国に紛れ込んでしまう。それを機に、河童の少年は人間界へ留学することに。三平の代わりに河童が学校に通っていると、なんと死神が現れる。おじいさんをあの世へ連れて行くというのだ。2人は必死で止めようと奔走。さらに河童は水泳大会の予選で珍騒動を巻き起こす。ユーモアに溢れながらも描き出される生と死。貸本時代の大傑作、待望の文庫化。
※上記バナーの Amazon 商品サイトより引用
河童から泳法を教わった三平は、県の水泳大会で優勝。なんと横浜で開催される国体に出場することに。しかし大会当日、屁による空中泳法を披露し、ここでも大騒動を巻き起こしてしまう。その後三平は、宿で出会った魔女の花子と東京にいるはずの母を捜し始めるが、彼は次々と予想外の事態に遭遇してしまうのだった。生きること、死ぬこと。そして友情、喜怒哀楽。少年のさまざまな想いが詰め込まれた大傑作長編漫画、堂々の完結。
※上記バナーの Amazon 商品サイトより引用
そもそもの始まりは、戦争から帰ってきた時に家に兄の三歳の子どもがいて、思いつきで「河童のカー坊」という話をしたらウケたから「河童の三平」として紙芝居にしたということであった。
その後、貸本漫画作品にもしたが、出版元が八巻でやめるというのでやむなく三平を殺してしまったという。
水木さん自身、これは生涯最大の失敗だったと言っている。
これは水木しげる生涯の最大の失敗だった。ぼく自身も、死んでしまったものを生かしてかくのは、なにかウソついているようで苦しい。「河童の三平」をみると、いつもバカなことをしたものだと残念でならない。
※水木しげる「なまけものになりたい」河出文庫2003, P14 より引用
もし、鬼太郎と同様にこの作品も続いていれば、小学生の頃に読んでいたことだろう。
描き続けていてくれたらなぁと思ったが、結果的に描かなかったということは、水木さん自身の中で完結してしまったところがあったのかもしれないとも思われた。
戦争体験の話
戦記物でも有名な水木さんだから、やっぱり戦争の話もいろいろ出てくる。
まず戦記物の漫画の話であるが、戦後になって、大きな海戦を起こった順に描いていったら、負け戦になるにしたがって本の売れ行きが落ちたそうである。
食っていかねばならないから売れそうな作品も描いたそうだが、「しかし」と水木さんは言う。
しかしぼくは、本当の戦記物というものは「戦争はおそろしいこと」「無意味なこと」「悲惨なこと」を知らせるべきものだと思うのだ。
だが、そんなのは頭の禿げかかったオッサンぐらいしか読んでくれないだろう。
※水木しげる「なまけものになりたい」河出文庫2003, P29 より引用
戦後であっても子どもの心理としては、負け戦の話は読みたくないということなのだろう。
子どもには希望が必要だとは思うが、片腕を失って戦地から戻ってきた描き手にはしんどい話である。
時を遡ると、戦時中の世間について水木さんが感じていた印象はこうである。
戦争というのはその場所にゆく前から日本全土をあげて興奮気味であり ゆく本人もいつ召集を受けて“死地”におもむくのか 分からない日々だから 落ち着いてものを考える、といった時代ではなかったようだ。
※水木しげる「なまけものになりたい」河出文庫2003, P30 より引用
戦争が終わった後ではこうなる。
戦争の話をすると近頃は“老人”といわれるが、一生の間で一番すごかったのは やはり戦争だったから しぜんに毎日夢を見るのかもしれないと思ったりしている。
※水木しげる「なまけものになりたい」河出文庫2003, P33 より引用
ここのねぇ、「一生の間で一番すごかったのは やはり戦争だったから」というところにグッときた。
体験すればこうなるのである。
戦争体験の悲惨さを共有する意味とは別に、もう一つ、戦争というものがこれ程までに社会を変えてしまうものだということを知ることにも大きな意味があると思われた。
そして戦争中にいた南方の島の話、妖怪の話などが続いてから中ほどもう一度、戦争の話になる。
その中でも極めつけは、「玉砕の歌」であった。
怪人奇人に長生きで健康なのが多いわけではないが、先日大阪に妖怪の話で行くと、暑いのに戦友が待っており、「玉砕の歌」をきかせてくれた。
一
弾も食も尽きてて
敵をにらんで突撃す
あーあー 真の光栄
玉砕へ!!
二
敵にたのむは鉄の量
我にたのむは肉の量
あーあー 真の光栄玉砕へ!!
げらげら笑いながら七十五歳の老人が二時間、大きな声でしゃべりまくるのだ。 顔も声も“妖怪風”で迫力に満ちていた。
「こんな歌、歌われへん。我にたのむは肉の量なんて、ほんま、あほらしいで」※水木しげる「なまけものになりたい」河出文庫2003, P112 より引用
これを歌って笑えるのも、笑っていいのも、実際に体験した人だけだろう。
「あほらしいで」というのは今聞けばもっともに感じても、こう歌われる現実があったのだと思うと笑えない、実に笑えない話である。
これには参った、実に参った。
そしてまた妖怪の話
前回の「妖怪になりたい」の記事でも妖怪についての見方の話に触れたが、こちらの方にもチラチラと話が出てくるので幾つか挙げておきたいと思う。
「野宿火」という、春の桜狩りとか秋の紅葉狩りなどのあと、人っ子ひとりいなくなったあとに好んで出現し、ボアッともえたりするのがある。近づくとその火から、人がさわいで歌ったり、ひそひそ声で話したりする声がきこえ、時には哀れな声もきこえるという。
僕は火こそみなかったが、子供の頃、運動会なんかのあと、紙くずのあるところを一人であるいていると、よく「野宿火」みたいな感じがしたのだ。だから後年その火の妖怪を、本のなかにみつけて読んだ時には、昔の人と握手したくなったくらいだった。
だから妖怪も見方によっては実在する。 ただいろいろな気づき方があるわけなのだろう。※水木しげる「なまけものになりたい」河出文庫2003, P69 より引用
これもまた、「妖怪になりたい」に出てきた「小豆洗い」の話と同じく、ソレを感ずる人の心が妖怪を生むということであろう。
万物に精霊ないし霊魂が宿っている、アニミズムという祖先の考え方や、自然物と人間集団とが、同じように信じあうトーテミズムといった考え方を失ってから、人間はつまらなくなったような気がしてならない。
※水木しげる「なまけものになりたい」河出文庫2003, P73 より引用
こうしたアニミズムと言われるものを非科学的として一蹴してしまうか、人の心の豊かさであると思うか。
私は、人の心の豊かさであると思っている。
そして水木さんが参考にしている妖怪関連の本についての感想はこうである。
日本で一番妖怪のたくさん出ているのは井上円了の『妖怪学』であるが、この先生はこんなにを集めていながら“科学”と称するもので勝手に分類し、あげくの果ては“そんなものない”というようなことをいっておられる。私はこの人がこんなに妖怪を集められたことに対し尊敬しているが、妖怪を否定されたことについては不満
である。柳田国男大先生は『妖怪談義』で、あるような、ないような、どちらかというと背定的な発言が多い。若き日の私はこれでかなり元気づいた。というのは、私は妖怪が本当にいると言われると元気になり、いないといわれると元気がなくなるのだ。
※水木しげる「なまけものになりたい」河出文庫2003, P130 より引用
妖怪がいると言われると元気になるというのが、水木さんらしい感想である気がした。
人形作家・山岡草さんの話
水木さんは子どもの頃、カミサマの絵はおかしいと思っていた言う。
神社に奉納してあるカミサマの絵をみてはおかしいと思っていた。
すなわち、実在するカミと違うのではないか、僕はおぼろげながら考えていた。
※水木しげる「なまけものになりたい」河出文庫2003, P124 より引用
そしてある日、雑誌「サライ」に掲載されていた和紙の人形を見て、
長年求めていたカミの形がそこにあるのだ。
※水木しげる「なまけものになりたい」河出文庫2003, P125 より引用
と感じたそうである。
水木さんはこの後、この人形の作り手である人形作家・山岡草さんの展覧会に行って、直接話をする。
そして、郵便物での交流が続いていたが、山岡さんのところを訪問する前に、山岡さんは亡くなってしまった。
山岡さんとその作品について、水木さんはこう書いている。
彼の送ってくれた写真や自然の造形物をみると、山岡草は山のカミに魅入られていたのではないかと思う。山の精霊は彼を通して顕在化したのだと思う。
普通の人と違って“精霊”を感じていたからこそ、茨城の大子という町の、あのだれもいない山のなかで一人暮らしができたのだ。
普通の人は退屈するが彼はそういうことはなかった。それこそ、真の山の人であり、カミを感ずる人であったと思う。何もないところで、自然の本当の精霊たちをあの和紙人形で表現したのだ。
純粋な彼の心を通してカミが現れたのだ、と僕は思う。※水木しげる「なまけものになりたい」河出文庫2003, P126-127 より引用
水木さんがここまで言う和紙人形とはどんなものだろうかと思って調べてみたら、今では茨城県の大子町にある和紙人形美術館で常設展示されていた。
この美術館の公式サイトで、実際の和紙人形を見てみると、実に温かみのある人形であった。
先述の通り、鬼太郎の味方になった妖怪は『妖怪談義』を参考にしているが、説明だけで形がなかった。
そこで水木さんは自分で妖怪の形を作ったわけだが、その方が愛嬌があってよかったと言っている。
水木さんの中では妖怪や精霊というのは、愛嬌があって、この和紙人形のように温かみのある存在なのだと思われた。
水木さん自身は自分の妖怪の創作活動についてこう書いている。
“妖怪とは何か”というのは私の長年のモンダイだった。といって学問的に霊の実在を云々するような資料も乏しい。なにしろ相手は「見えない世界の方々」であるから、証拠として“出現”などということは不可能である。 何らこれといった解決策もなく、ただの幻想ではないかと思ったこともあったが、手許の妖怪の絵はふえてゆくばかりだった。私は何十年も、たのまれもしないのに描き続けていたのだ。
(中略)
アボリジニは“霊”との対話は絵を描くことしかないという。私も自覚はなかったが、霊"と対話する修行をしていたのかもしれない。※水木しげる「なまけものになりたい」河出文庫2003, P131 より引用
水木さんは妖怪というカミに魅入られていた、こう思うのは私だけだろうか。
「雨月物語」について
後半に「雨月物語」の話が出てくるのだが、どうしてだろうと思ったら、水木さんが挿絵本を描いていたからであった。
まず、「雨月物語」はこういう作品である。
▼上田秋成「新版 雨月物語 全訳注」講談社学術文庫2017
上田秋成が遺した、江戸中期を代表する怪異小説集。安永5年(1776)刊、5巻9編。執念は彼岸と此岸を越え、死者との対話を繰り広げる。それは夢幻か、現実か――。現代語訳に語注、考釈も加えた決定版。
※上記バナーの Amazon 商品サイトより引用
この九編うちの「吉備津の釜」「夢応の鯉魚」「蛇性の婬」に挿絵をつけたのが、「水木しげるの雨月物語」である。
▼水木しげる「水木しげるの雨月物語〈愛蔵復刻版〉」復刊ドットコム2017
江戸時代後期に活躍した上田秋成の小説『雨月物語』を、自らの絵で表現した『水木しげるの雨月物語』。
「吉備津の釜」「夢応の鯉魚」「蛇性の婬」の三篇が、水木しげるの圧倒的な筆致で描かれた図絵と共に収録されています。※上記バナーの Amazon 商品サイトより引用
さすがのクオリティーである。
が、であるが……
「雨月物語について」と改まって言われても、書くことがない。
※水木しげる「なまけものになりたい」河出文庫2003, P140 より引用
エッセイの方ではこう書いてあって、なかなかの温度差を感じた。(笑)
この後の部分を読むと、水木さんの事情としてはこういうことであった。
無学なうえに読書ぎらいな私は、秋成については中学の教科書で二、三無害な物語を知っていたに過ぎないから、やむを得ず本を読んでみた。
(中略)
読んでみると、まったく大したもので、かかる偉大な先達がいるとは知らなかった。
※水木しげる「なまけものになりたい」河出文庫2003, P140-141 より引用
突然に偉大な先達を発見してしまったからだろうか。
水木さんのアレンジが加わった「新・雨月物語」もあり、秋成の晩年作品集である「春雨物語」の中の「目ひとつの神」も作品化されていた。
下記に収載されているようである。
▼水木しげる「現代妖怪譚[全](水木しげる漫画大全集)講談社2015
▼上田秋成「春雨物語 現代語訳付き」角川ソフィア文庫2010
「血かたびら」「死首の咲顔」「宮木が塚」をはじめとする一〇の短編集。物語の舞台を古今の出来事に求め、異界の者の出現や死者のよみがえりなどの怪奇現象を通じ、人間の深い業を描き出す。秋成晩年の幻の名作。
※上記バナーの Amazon 商品サイトより引用
いずれ読む機会があればと思っている。
「ゲーテとの対話」の話
さてさて、例によって大分長くなりつつあるので、この話で終わろうと思う。(笑)
水木さんは18歳ぐらいの時に、偶然、岩波文庫の「ゲェテとの対話」を手にしたという。
水木さんの妖怪好きのイメージにゲーテがしっくりこない印象であったが、読み進めてみると納得感があった。
その頃は、太平洋戦争が始まり、いずれ死ぬるのも時間の問題だと思っていたから、当時の若い人は生きることに真剣だった。“人生とは何か”といったことも分らずじまいに死ぬと思うと、全くつまらない。そこで岩波文庫となったわけだが、どうしたわけかその頃、岩波文庫を読む若者は多かった。
『ゲェテとの対話』だが、なにしろゲェテの晩年のごく普通の会話を、エッケルマンというマジメな男が書き残したもので、誠実そのものだ。その誠実さが伝わってくるのだろう、友人だか、ゲェテと話しているみたいでとても面白かった。
(中略)
ゲェテは面白い男だと思うと同時に、“センセイ”にしてもよろしいと思って、僕は対話の“感心”するようなところをノートに書いて戦地までもっていった。
そのせいかもしれないが、今でもその時その時”に必要な言葉が出てくる。
すなわち、人生の“センセイ”だったわけです。
そのお陰かもしれないが、どうにか人生を大過なくすごし、ささやかな幸福にもありつけたような気がする。※水木しげる「なまけものになりたい」河出文庫2003, P146-147 より引用
戦時だからといって、戦争でいずれ死ぬということが受け入れられるとは思われないのだが、“人生とは何か”といったことを考えたいという若者の気持ちはよくわかる。
水木さんが、この後の「人生と努力」という話の中で具体的に挙げているゲーテの言葉は、
「常に務めて怠らぬものは必ず報われる」
※水木しげる「なまけものになりたい」河出文庫2003, P147 より引用
であった。
ちなみに「ゲーテとの対話」はこんな本である。
▼エッカーマン、山下 肇 (訳)「ゲーテとの対話」(全3冊セット)岩波文庫2013
ゲーテを崇拝してやまなかった著者は,晩年のゲーテに深く愛されてその側近くに身を置いた.ほぼ十年に及ぶ両人の親しい語らいは,文学,芸術はもとより個人生活,諸外国の文化など多岐にわたり,それをまとめた本書は読者もまたゲーテと共に語っているかのような愉しさにあふれている.ゲーテを知るための必読書.
※上記バナーの Amazon 商品サイトより引用
まだ、読んでないなぁと思いながら記事に張り付けるバナーを検索していたら、こんな本も一緒に挙がってきた。
▼水木しげる、水木プロダクション(編)「ゲゲゲのゲーテ」双葉新書2015
水木サンが最後に伝えてくれたのは、
人生を幸せに生き抜く智慧の詰まった、
珠玉の言葉の数々でした――。
「水木サンの人生は80%がゲーテです」と自ら語るように、
10代で出会い、死線を彷徨った戦場にも密かに携え、
暗唱できるほど繰り返し読んだ『ゲーテとの対話』。
ドイツの文豪・ゲーテが創作、社会、仕事、そして人生について語った、
名言、格言、箴言の中から、水木サン自身が選んだ言葉93篇を収録。
体の隅々まで沁み込んだゲーテの思想を、ユーモアを織り込みながら、
“ゲゲゲ流”にわかやすく解きほぐす。
さらに、インタビューや過去の執筆原稿を交えながら、
水木サンが敬愛した賢者の“人生の杖"となる言葉を贈ります。
※上記バナーの Amazon 商品サイトより引用
ここまでゲーテが好きだったとはねぇ。
2015年出版だから、水木さんが亡くなった年の出版である。
まずこれから読もう。(笑)
ということで、こちらは早速購入したのでいずれ記事にしたいと思っている。
水木さんの「まなけ哲学」について
先述のゲーテの言葉を紹介した以上は、やっぱりこれも書いておかねばなるまいと思ったので、おまけである。(笑)
この本のタイトルのもとになっているネタかと思われるが、水木さんが自分の「なまけ哲学」について書いている箇所を引用して終わる。
だいたい、エネルギーの消費を最小限にとどめて仕事する、即ち生きてゆくというなまけ哲学を信条としているため、読書も最小限にとどめるのを常としている(では、余分の時間は何をしたいのか、といわれると、ぼんやりしてゴロ寝するのが趣味である)。
※水木しげる「なまけものになりたい」河出文庫2003, P140 より引用
まぁ、ゴロ寝はしているのかもしれないが、先に挙げたゲーテの言葉にしても、作品と仕事量にしてもやはり怠けているとは到底思われないのである。
人の願望ってやっぱり、このぐらい裏腹なものですよね。(笑)
今夜はこの映画でも観ようかなと思っている。
▼映画「ゲゲゲの女房」(2010年製作)
※監督:鈴木卓爾