NHK SONGS「一青窈」/耳をすます | 日々是本日

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bookudakoji の本ブログ

 SONGS は毎週木曜日にNHK総合で放送している音楽番組である。

 

 2022年10月27日の放送回が「一青窈」さんだった。

 

 

 今回は以下の三曲の話を中心にコメントしていくシリーズ記事の3回目である。

 

もらい泣き
ハナミズキ
耳をすます

 

 前回の「ハナミズキ」の記事に続いて、「耳をすます」を取り上げる。

 

 尚、音楽番組の記事では歌詞の直接引用は控えているため、似た表現で代用している。
 

 正確な表現はリンクページを参照されたい。

 

 

耳をすます

▼一青窈公式チャンネルPV「耳をすます」

 

▼歌詞はこちら

 

 さて、話はいよいよ番組放送当時の2022年10月にリリースされた新曲「耳をすます」の話題になった。

 

 どんな曲だろうと思って観ていると、番組のナレーションはPVの映像と共にこの曲をこう紹介した。

 

コロナ禍で絶望や死が隣り合わせになった今、一青さんが感じたことを歌詞にしました。

 

 そしてこの感じたことについて、本人のコメントが続く。

 

もうこれ以上、若い命をなくして欲しくないと思ったんですよ。

インスタ見てもツイッター見ても何見ても、

自分を愛して欲しいみたいなのが、バーッと聴こえた瞬間があって、

もっと自分のことを見て欲しいみたいに全部が見えて、

こんな他人のアタシで良かったら、「愛します!」と思ったんです。

その衝動で書きました。

 

 この後ですぐに歌の映像が流れた。

 

 作曲は森山直太朗さんだった。

 

 詩の出だしは「あなたがいなくても世界は周るよ」と始まるが、「あなたの歌は待たれていた」と言う。

 

 そして最初のサビで、「一番かけて欲しかった言葉を一番好きな人にかけてあげればいい」と言う。

 

※番組の映像ではここで曲の一部(最初のサビ「愛して欲しいという声が聞こえる」という部分と、「今は自分を生きて欲しい」という部分)が省略されて、次のサビに続く。

 

 次のサビの中心的なメッセージは「頑張ったね」と「大丈夫」である。

 

 そして、「みんな私と同じだよ」、「心配してるよ」と言う。

 

 この後、最初のサビが繰り返されて、「愛して欲しい」というあなたの声に「耳をすます」私は「愛している」と言う。

 

 最後は、「あなたがいなくても体は愛に満ちる」と言って終わる。

 

 なかなか、ガツーンときた。

 

 いや、かなりガツーンときた。

 

 SNSのコメントの裏側に大衆の抱く愛して欲しいという願望を感じて、これに真っ直ぐ応えようと思う人はそうそう居るものではない。

 

 更に、この気持ちをこんなにストレートに「愛します」と歌ってしまう人はもっと居ない。

 

 まず、このことに相当に驚いた。

 

 ここでは、詩の細部の表現についてのコメントは割愛して、「あなた」と「私」の関係性を中心に最初から振り返ってみたい。

 

 冒頭、「あなたがいなくても世界は周るよ」と始まる。

 

 この後の「開こうとしている黒い瞳」は子どものイメージのように感じられた。

 

 そして、この節の最後では「あなたの歌」が待たれてもいる。

 

 世界から取り残されているように感じても、実はあなたは期待されている存在なのだと言っているように思われた。

 

 次のフレーズでは、「あなたの歌」を待っているのは大好きな人で、かけるべき言葉は自分がかけて欲しい言葉であると言う。

 

 そして最初のサビに入り、「私」は「あなた」の「愛して欲しい」という声を聞き、「愛している」と言う。

 

 この「愛している」と言う「私」には母親のニュアンスを感じた。

 

 ここまでで、「あなた」と「好きな人」の個人と個人という関係に親子の愛を重ねている。

 

 上手いなぁ。

 

 そして最初のサビで、「私」は「あなた」の「愛して欲しい」という声を聞き「愛している」と言う。

 

 ここでの「あなた」の声をきく「私」は、「あなた」と「好きな人」との関係の理想的な体現者であるように思われる。

 

 つまり、「私」は「あなた」の「愛して欲しい」という声を聞き「愛している」と言う、だから「あなた」も「好きな人」の声を聞きいてかけて欲しかった言葉を言ってあげて欲しいということである。

 

 他者の気持ちに「耳をすます」ということによって「愛している」と言う関係性を、連鎖していって欲しいというメッセージが感じられる。

 

 次の節は、しんどい「あなた」の気持ちに、まず「私」が寄り添うということなのだと思う。

 

 「探す面影」と「遥かな過去」ということからは失恋と死別が想像されるが、詩の全体に対する意味合いとしては、過去の出来事による今の生きづらさの象徴的表現であるように思われる。

 

 「私」は「あなた」に「今は自分を生きて欲しい」と願い、目の前にあからさまに素晴らしい希望があるよというのではなく、隙間に知らずにいた希望があると言う。

 

 そして、「頑張ったね」と「大丈夫だよ」と思う。

 

 「あなた」がかけて欲しいと思う言葉は、時には「よく頑張った」という言葉であるかもしれないということだろう。

 

 けれども、この「私」の声は「あなた」に届いているのだろうかとも思うのである。

 

 この理由は、「あなた」のしんどさや不安や恐れを軽くは見ないからである。

 

 「私」がキリングフィールドの前で立ちすくんだ時の気持ちと同じ程だと言うのである。

 

 ※「キリングフィールド」はカンボジアで大量虐殺が行われた刑場跡地

 

 ここがまた、凄いところだ。

 

 寄り添う「私」のやさしさが感じられる。

 

 恐らくこの「私」の思い遣り方が、一青窈さんが感じるところの「耳をすます」のに必要な気持ちなのだと思う。

 

 そして、心配する「私」と「あなた」をつなぐのは「新聞配達のエンジンの音」である。

 

 この辺りの具体的な表現そのものについては、一青窈さんのイメージワールドだなぁと思うのであるが、この距離感には注目しておきたい。

 

 この詩の「あなた」を思い遣る気持ちは「もらい泣き」に通じものがあると思うが、心配する「私」と「あなた」の距離は、直接話を聞いてもらい泣くよりも遠いように思われる。

 

 だからこそ、心配する「私」は「あなた」の声に「耳をすます」のだろう。

 

 これはもう、もらい泣きするやさしさの時代ではないということなのだろうか。

 

 聞こえない声を聴いて相手を思い遣る時代ということなのだろうかなぁ。

 

 この後のサビでは、最初のサビで「それに」「耳をすます」となっている部分が「いつも」「耳をすます」に変わっている。

 

 気持ちの深まりが感じられる。

 

 そして、最後に「あなたがいなくても身体は愛に満ちる」と言う。

 

 ここにまた、衝撃がある。

 

 「愛している」と言う「私」の声が届きますように、と願って終わるのではないのである。

 

 まず、ここでの「愛に満ちる身体」は私の体であろう。

 

 そして私の体が愛に満ちる理由を、最後の最後で「あなた」が「生きているから」と言うことによって、「あなた」がどこにいようとも「あなた」が生きていることで愛に満たされる「私」がいるよと言っているように思う。

 

 最初の部分のあなたは期待されている存在だというメッセージを受けて、あなたは生きているだけで意味があると展開しているという解釈である。

 

 「あなた」の声に「ただ」「耳をすます」ところから始めて、「いつも」「耳をすます」ところに至るまで「あなた」に向いていた「私」が、最後に、あなたは生きているだけで意味があるという「あなた」に対する「私」の気持ちを表明して終わるのである。

 

 この展開だけでも凄いが、この「私」の気持ちを伝えるところで「身体」を登場させるところに、「もらい泣き」でも感じた、心境と身体との結びつきを重く見る一青窈さんの独特の感性が表れているように思われた。

 

 更に、詩の全体から見ると「あなた」は普遍的な万人であり得るし、「私」は他者の声に「耳をすます」理想的な「あなた」であり得る。

 

 そうすると、「私」があなたは生きているだけで意味があるということは、

あなたが生きているだけで喜びを感じる人が他にもいる

ということと、

あなたも誰かが生きているだけで喜びを感じる人である

という二つのことを同時に言っていることにもなる。

 

 そしてこれは、あなたが誰かが生きているだけで喜びを感じる人になったなら、あなたの身体も愛に満たされるということである。

 

 この記事を書きながら何度も聴いたけど、やっぱり凄いなぁ。


 本当にもう、どうして一青窈さんはこの究極の理想をここまで突き抜けてスパーンと詠ってしまうのか、歌ってしまえるのか……

 

 「ハナミズキ」が究極の理想世界を詠った歌ならば、「耳をすます」は究極の人間愛を詠った歌であると思う。

 

 さて、この曲を何度も聴きいているうちに、「自分を生きる」という言葉に込められた想い、「見ず知らず」と擬人化されている希望、「綺麗なビル」が象徴しているもの、「雨のしずく」という表現から感じられる恵みの雨のようなニュアンスなど、他にも幾つか思うところはあったが今回は割愛して、最後に、先日このブログの記事にした若松英輔さんの「悲しみの秘儀」に思い至ったことについて書いて終わりたいと思う。

 

 

 若松英輔さんは「悲しみの秘儀」の中で、「悲しむとき人は他者とつながる」と言っている。 

 これは、「人の気持ちを想うことによって人は人と繋がる」という普遍的真実の一つの具体であり、一青窈さんの「耳をすます」の他者を思い遣る世界もまた同じくこの普遍的真実の一つの具体なのではないかと思う。

 

 だから、「耳をすます」の「私」はしんどい「あなた」の気持ちに寄り添うのであり、他者の気持ちを思い遣るということは悲しみへの共感を伴うものであるということが思われた。