ドラマ「ももさんと7人のパパゲーノ」 | 日々是本日

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bookudakoji の本ブログ

【再放送】総合テレビ 9/11(日)午後1時50分~

 

 ドラマ「ももさんと7人のパパゲーノ」はNHK総合の【特集ドラマ】シリーズである。

 

 8月上旬から5分間のPR動画を度々放送していたので、どんな内容かなぁとは思っていた。

 

 本放送は8月20日であったが、PR動画の内容から現代の若者の生きづらさを描いた作品であるのはわかっていたので、録画を見るタイミングを見計らっていたのである。

 

 主演は伊藤沙莉さんさんで、同行する男性役として染谷将太さんが共演している。

 

 公式サイトの番組紹介はこうである。

 

ももさんには、これまで誰にも言わなかった言葉がある。

「死にたい」。

ある夏、ひょんなことから旅に出たももさん。 それぞれに生きづらさと折り合う7人と出会い―。

「死にたい」自分を肯定していく、1週間の物語。

 

 <“パパゲーノ”とは> 「死にたい気持ちを抱えながら、その人なりの理由や考え方で“死ぬ以外”の選択をしている人」のこと。 こうした経験を持つ人のライフストーリーには、つらい状況にある人を思いとどまらせる抑止力“パパゲーノ効果”があるとされている。

 

番組公式サイトより引用

 

 この番組には「わたしはパパゲーノ」という関連した特設サイトがあるのだが、パパゲーノについてこちらでは少し詳しく解説されている。

 

▼「わたしはパパゲーノ」特設サイト

「わたしはパパゲーノ」は、「死にたいほどつらい気持ちを抱えながらも、死ぬ以外の道を選んでいる人、その人なりの理由や考え方で、いま生きている人」のお話を紹介するサイトです。


そうしたストーリーを伝えることが、自ら命を絶とうとする人の抑止力になるという「パパゲーノ効果」と呼ばれる研究を参考にしたプロジェクトです。

死にたいという気持ちを否定したり、防ぐべきものと考えたりするのではなく、生きることのつらさを認め合い、1日1日を生きのびていくための居場所づくりを目指しています。

 

「パパゲーノ効果」の名称は、モーツァルトのオペラ「魔笛」の登場人物・パパゲーノに由来します。


森で鳥を獲る“鳥刺し”のパパゲーノは、王子にお供する試練の道程で、あるとき、死のうと決意します。そのとき童子たちが現れ、魔法の鈴を鳴らすように言われます。すると、自分と似た姿をした片割れのような存在・パパゲーナが現れ、パパゲーノは死ぬことを思いとどまります。

 

 

---以下、ネタばれあり注意---

 

 

 冒頭、主人公のもも(伊藤沙莉)は普通に会社員としての生活を送っているが、ある日曜日、眠れずに薬を飲みすぎて翌朝、救急車で搬送される。

 

 ここで、ももは自分が「死にたい」と思っているのに気づく。

 

 後日、友達と焼肉を食べながらどういう時にそう思うかを話すもも。

 それは、テレビで「社会の声」的な特集を見た時とか、美容室で思った髪型にならなかったり、友達に勘違いされたりといった時であると話す。

「そんなんで死にたくなる?」
と友達は実に当たり前の反応をする。

 

 でも本当にそうなのだから、そんなんで死にたくなるのはおかしいと思って「そんなんで死にたくなる?」と返すのは、友たちの勘違いである。

 

 だから、ここでも内心は「死にたい」と思っているのである。

 

 20秒のやりとりだが、なかなか手の込んだ描き方だ。

 確かに、死にたいと思って本当に明日死んでしまう人ほど「死にたい」と思っているのではないだろうが、「死にたい」という思うのも事実なのだから、そこには良し悪しもおかしいもおかしくないもないのである。

 そして、今の若者の状況において、生きていることの中に死を想わせるだけの閉塞感があるケースが増えているのは事実だろう。
 

 その後の月曜日、会社近くの駅で会社に体調不良のため休むという電話して、ももは会社を休んだ。

 

 翌日の火曜日も体調不良のため休むという電話して会社を休む。

 そして、ももは旅に出た。

 それは、しんどいなぁと思っても楽しい事を見つけられてる人に話を聞きに行く旅だった。

 最初の人物は、実際に会ってみると昔の同級生だった。

 IT系の会社に就職したが、パワハラ問題で退職をして、今では農業をやっていた。

 いろいろな話をして農作業を手伝って、ももは会社に辞める電話をした。

 昔の同級生のところを後にしたももは、道中で一夜の宿を借してくれないか頼み歩いて、使ってないテントに宿を得る。

 

 翌日の水曜日、ももはSNSで連絡がきた雄太(染谷将太)と会った。

 喫茶店で話をすると雄太は、その場で会社に退職の連絡をして、ももについてきてしまった。

 ももはテントを確保して、二人でキャンパーのような生活を始める。

 

 木曜日には、学校でのトラブルでメンタルクリニックに通う女子高校生に会った。

 メンタルクリニックの先生に自殺計画を止められて今は思い留まっているという話を聞いた。

 

 金曜日には、ただだらだら生きていると話す中年男に会った。

 男は、若者に若さの価値を説いた。

 

 若者には若さが当たり前にあるので、無益だった。

 

 死にたいという人に、それは悪いことだと言いうのと同じぐらい無益だった。

 

 土曜日には、死にたいと思っているが、しんどいけど頑張って仕事は辞めないでいるという中年男性に会った。

 この男性は、

「仕事があったからこそ、僕は生きていこうと思えた。」

と言い、

「そこで頑張れるかどうかで、今後の人生が楽しいものになるかどうかが決まるんです。楽しさって、辛い時にどう頑張れるかなんです。

とも言った。

 そして、

「辛い時にどんな人の顔が思い浮かびますか?」

と訊くのだった。

 浮かばないというももに、男性は、

支え合える人を探すところからかもしれません。」
と言った。

 中年男性が帰った後も、二人が店に残っていた。

「仕事を辞めたことがダメみたいに言う必要ないじゃんね。」

と言う雄太にももは、

「ダメでしょ。」

と言った。

 そして一人になりたいと言うももから、雄太は去っていった。

 

 良し悪しで判断しようとする議論の典型のような話である。


 辛いけど頑張るのは正論だし、それでなんとかなる人もいるけど、頑張れない現実を悪いと言って否定して何も解決しない。

 

 この二人にとっては頑張れなかったのが現実であって、でもそれで最悪の事態にならずに済んだのかもしれないのである。

 

 雄太の言うように良し悪しの話をしてもしょぅがないのだが、ももはまだ、しんどいけど頑張って仕事は辞めないでいるべきという自分とそこからくる罪悪感に対して葛藤しているように見えた。

 支え合える人が辛い時に頑張るのに必要だというのはもっともだが、それはまだ辛い状況にあって自分の生きる意味を探している時にも同じように必要だろう。

 

 一人でテントに戻ったももは、ホームレスの山口と出会う。

 この旅のことを誰かに話したかったももは、初対面の山口にこれまでの話をする。

 そして、

「やっぱり働いた方がいいですよね。」

と言うももに山口は、

「そりゃあ、どっちだっていいだろう。」

と答えた。

 

 そして、社会の「こうあるべき」ということにとらわれない山口と話すうちに、ももの罪悪感は和らいだようだった。

 

 翌朝の日曜日、ももは雄太のことが気になって電話をかけた。

 雄大は、

「いま屋上にいる。」

と言った。

 雄太が居ると言った屋上に、ももは駆けつける。

 ももはそこで、付き合っていた人と別れ話をしたら自分の気持ちをどうしていいかわからなくなったという雄太の話をきく。

 下を見て怖かったから止めた、怖いと感じられて良かったとも言った。

 そして、

「どうやったらこの辛いの無くなるんだろう。」

と、ももに訊いた。

 ももは、

「なんて言ったらいいかわかんないけど、でも、飛び降りなくてよかったな。」

と言うので精一杯だった。

 

 どうしたらこの辛いのが無くなるか、という問題設定は良い問題設定だろうか?

 

 この問題設定の前提として標準的に考えられるのは、辛いものは無い方がいいという考えである。

 

 生きるということはそもそも、それなりには辛いものであるから、無くそうと思って辛さにばかり気を取られているとかえって辛さはなくならない、ということがあるのではないだろうかと思われた。

 

 それとも、四六時中まとわり付くようなしんどさが、人生の普通の大変さになるにはどうしたらいいのだろうか、という問いであったのだろうか。

 

 判断がつきかねた。

 

 さて、テントに戻った二人は、月曜日の朝を迎えた。

 早朝、起きてテントから出てくる二人。

 お互いに、あまり寝れなかったと話す二人。

 ももは、

「月曜日だからだ!」

と言う。

 

 仕事は辞めても、まだまだ捨てきれない現実が残っていた。

 

 そしてももは、

「死にて~」

と言う。

「わかる~」

と返す雄太。

 そして、

「でも、その前にトイレいきて~」

と言う雄太。

「わかる~」

と返すもも。

 そして、二人はトイレへ向かった。

 

 この時の二人には、生存のリアリティーとでも言うような生きる力が生まれつつあるように見えた。

 

 映像は最後に二人が駅で別れるシーンになる。

 

 別れ際、ももは去っていく雄太に、

「今日って、ちょっと夜更かしをしようか。」

と声をかける。

「電話するの?」

と訊き返す雄太。

「電話とかはしないけど、でもなにか寝れない人が他にいるって思うとちょっと安心する。」
と、ももは答えた。

 

 ここに、支え合える人同士になった二人を見た。

 

 見知らぬ他人なら、同じように寝れないでいる人は今までも沢山いたはずだから。

 

 そして二人は、それぞれの方向に笑顔で歩いて行った。
 一度帽子をかぶり直して、歩き出すもも。
 この後、挿入歌と共に歩いていくももの映像が約1分間続いて、番組は終わる。

 

 60分のドラマで、この最後の1分間は長い。

 

 余韻を感じさせる意図だろうか、個人的には、まだこの先の人生は長いというメッセージであると感じた。

 

 生きづらさから「死にたい」と言う若者を描いた作品であるが、誰も死なないし、案外希望的に終わる。

 

 本当に死にたい人にはままごとみたいな逃避行に思われるかもしれないが、この旅の重要さは当人たちの基準で判断すべきだろう。

 

 弱さや現実逃避ということで片づけていい話ではない。
 

 だからこそかえって重要である。


 自殺してしまってから、何が出来ただろうと考えても遅いのだから。
 

 NHKは今の若い世代の生きづらさ問題や自殺問題をしばしば取り上げていて、2021年6月13日にはNHKスペシャルで「若者たちに死を選ばせない」という番組を放送している。

 

▼NHKスペシャル公式サイト

 

▼ブログ記事


 こうした今の状況について思うことは、社会が変化して自由になれば、迷う人は増えるということである。


 ここで言っている社会の変化と自由ということは、情報化による現実感の希薄化、個人の尊重と周りに合わせるという社会的圧力との矛盾の先鋭化、人生の標準的な生き方という考え方への懐疑、信じるものや大切だと思うもの、幸福感といった価値観の多様化などである。

 

 標準的ではなくてもよくなって選択肢が増えれば、迷いも増えるのはおかしいことではない。


 しかし、社会が変化して自由が増したからといって、生きる意味を自分で見つけて人生を自分で選択していくことは、それなりに難しい。

 

 人生は普通に大変だけどそれでも頑張って生きろというのであれば、生き方を探索する自由、標準的ではないように生きる自由は、もっと社会的に認められる必要があるだろう。

 

 社会が自由であるということは、こういうことではないだろうか。
 

 そうであれば、自分なりの生き方を見つけて社会に戻ることは悪くない選択である。


 しかし、社会が多様な生き方が認めても、それだけで生きる意味を自分で見つけて人生を自分で選択していく生き方をできるようにはならない。

 

 そこには、生き方を学べる大人が必要である。

 

 このドラマを観て特に感じた今の若者がおかれている状況の問題は、生きる意味を自分で見つけて人生を自分で選択していくことを実践している大人が少ないということである。

 

 ドラマの中で自由に生きることを最も体現していたのがホームレスの山口であったのは、製作者の社会に対する皮肉だろう。

 

 とは言え、この現状が若者を過ぎている大人のせいかといえば、そうも言い難い。

 

 現状はそれぞれの世代がそれぞれの時代に適応した結果であり、社会が変化するスピードが早くなればやむを得ないと言うべきだろう。

 

 だから今、生きづらさを感じている若者に伝えたいことは、

 

 生きづらくても諦めないで欲しい

 

ということである。

 

 抱えてるいる問題や事情は違っても、支え合える人がいるかもしれない。

 

 意外な人が相談できる人かもしれない。

 

 トイレに行きたいと思うことからだって、気づくことがあるかもしれないのだから。

 

 そして、


 自分なりの答えを見つける人生は、

 そのしんどさに見合う良さがある。

 そこには自分だけの答えがあるのだから。