ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」岩波書店1982(その3) | 日々是本日

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 前回前々回に続いて、ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」の感想記事である。

 

はてしない物語 (エンデの傑作ファンタジー)

  ※原書の出版は1979年、日本での出版は1982年

 

  ▼単行本の装丁

  

 

 本の概略と前半の感想については、過去の記事を参照されたい。

▼このシリーズの過去の記事

 

 

---以下、ネタばれあり注意---

 

 

 さてさて、現実の世界にもどろうと決心して「元帝王たちの都」を脱出したバスチアンであったが、欲することを為しながら本当の望みに近づいて自分自身の物語を生きる道は、まだ続いていく。

 

 現実世界に戻る決心はしたものの、残っている自分自身についての記憶の量からすると、残された望みの数はわずかであった。

 

 ここでエンデは、望みというものについてこう説明する。

 

望みというのは、好き勝手に呼びおこしたりおさえつけたりできるものではない。そのための意図がよかろうとわるかろうと、望みはあらゆる意図よりはるかに深い深みからおこってくる。しかもそれは、ひそかに、気づかないうちにおこってくる。
 バスチアンの心の中には、自分では気がつかないうちに新しい望みが生まれ、しだいにはっきりした形をとりはじめていた。
 いく日もいく晩も一人ぼっちでさすらいつづけるうちに、淋しくて淋しくてたまらなくなったのだった。仲間がほしい、グループに入れてもらいたい、主君とか勝利者とか、何か特別なものとしてではなく、仲間の一人であるというだけのこと、一番だめな、一番重要でないものでもかまわない、とにかくふつうに仲間の一員で、いっしょになんでもできるそういうものとして仲間に入れてもらいたいという望みだった。

※ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」岩波書店1982, p511 より引用

 

 ここでやっと317ページで語られた、本当の望みが「自分自身の深い秘密」であるということが説明される。

 

 そしてバスチアンは、海辺の町にたどり着く。

 

 「いっしょ人」という船乗りたちのイスカールナリという町であった。

 

 「いっしょ人」の船乗りたちと向こう岸への航海に出たバスチアンは、そこで「いっしょ人」の秘密を知ることになる。

 

かれらのもとでは、一人一人の個人は問題ではないのだった。みなそっくり同じで区別がないのだから、かけがえのない個人はいないのだった。
けれどもバスチアンは、一人の個人でありたかった。ほかのみなと同じ一人ではなく、一人の何ものかでありたかった。バスチアンがバスチアンであるからこそ、愛してくれる、そういうふうに愛されたかった。イスカールナリの共同体には和合はあったが、愛はなかった。
バスチアンは、最も偉大なものとか、最も強いものとか、最も賢いものでありたいとは、もはや思わなかった。そういうことは、すべてもう卒業していた。今は、愛されたかった。しかも、善悪、美醜、賢愚、そんなものとは関係なく、自分の欠点のすべてをひっくるめて――というより、むしろ、その欠点のゆえにこそ、あるがままに愛されたかった。
 しかし、あるがままの自分はどうだったのだろう?

※ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」岩波書店1982, p518 より引用

 

 「いっしょ人」は言わば、全員で1人のようなのであった。

 

 そしてここで、「愛」と「あるがままの自分」が提示される。

 

 バスチアンの本当の望み、それは、かけがえのない何ものかであることあるがままの自分、そして、であった。

 

 向こう岸へ着くと、そこは「ばらの森」だった。

 

 「ばらの森」の小径の先にあった「変わる家」でバスチアンは、その家の主・アイゥオーラおばさまに出会う。

 

 そこでなんとアイゥオーラおばさまは、幼ごころの君に新しい名前が必要になった時からバスチアンがこの「変わる家」にたどり着くまでの道筋を整理して聞かせるのだった。

 

 物語の登場人物が、物語の主人公の心のあり様を整理して語るとは!

 

 そしてアイゥオーラおばさまは、話の最後で「変わる家」についてこう説明した。

 

そのとき、ぼうやは、やっと変わる家にたどりつきました。そして、真の意志が何なのか、それがわかるまでそこにいることになりました。というのは、この変わる家というのは、家そのものが変わるだけではなくて、家がその中に住む人を変えるから、そういう名前がついているのです。それは、ぼうやにはとても大切なことでした。ぼうやはそれまで、自分とはちがう、別のものになりたいといつも思ってきましたが、自分を変えようとは思わなかったからです。

※ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」岩波書店1982, p531 より引用

 

 ここで、本当の望みのための方法は、欲するものを具えた別の者になることではなく、自分自身を自分で変えることであるということが提示される。

 

 エンデは何を考えていたのだろう?

 

 自分自身を自分で変えること、これが自分で可能な唯一のことであり唯一の道だということだろうか。

 

 人生の要諦である。

 

 しかし、人が変わるのには時間を要する。

 

 バスチアンは自分の心にこれまでの望みとはまったく違う欲求が現れるまで、「変わる家」に留まった。

 

バスチアンの心には、まったく別の形の憧れが目覚め、大きくなっていった。それは、これまで一度も感じたことがなく、あらゆる点でこれまでの望みとはぜんぜんちがう欲求だった。自分を愛することができるようになりたい、という憧れだった。自分にはそれができなかったのだということに気がついたのだった。バスチアンは愕然とした。そして悲しかった。けれども、その望みはどんどん強くなっていった。

※ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」岩波書店1982, p542 より引用

 

 この時の気づきが起こった時のバスチアンの心境をエンデは、「愕然とした。そして悲しかった。」としか書いていないが、これは児童の読み手に配慮したものだろう。

 

 大人にとっとは自分自身を変えていくことも、同様の気づきを得ることも容易ではなく、もしこんなことが起こったならば、大抵は「愕然とした。そして悲しかった。」と言うだけでは全然足りないはずだからである。

 

 大人であれば今までの人生を振り返って、少なくとも何日も呆然とする程の圧倒的な衝撃があるに違いない。

 

 これから未来に生きる若者にとっては、この心境は、先の人生で実際に体験することだからエンデは敢えてこの程度の描写に留めたのだろうと思われた。

 

 さて、この望みを聞いたアイゥオーラおばさまは、

 

「とうとう最後の望みを見つけたのね。」

(中略)

「愛すること、それがあなたの真の意志なのよ。」

※ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」岩波書店1982, p543 より引用

 

と言った。

 

 そして、生命の水を飲んだらそれができるようになると教えて、変わったバスチアンを変わる家から送り出した。

 

 道に迷ったバスチアンがたどり着いたのは、人間世界の忘れられた夢の採掘場だった。

 

 そこではただ一人、鉱夫のヨルが人間世界の忘れられた夢を採掘し続けていた。

 

 ヨルはバスチアンの事情を承知しているように、生命の水を飲むには愛する誰かの夢の絵を採掘しなければならないと説明した。

 

 バスチアンが今では忘れてしまった父親の夢の絵を見つけた時の描写は胸を打つものがあった。

 

 雪の上においたその絵を眺めるうちに、バスチアンの中に、この見知らぬ男への思慕が目覚めた。それはるかかなたから押し寄せる海の大潮のように、始めはそれともわからないほどのかすかな波が、刻々と近づくにつれ、はげしく、大きく、ついには家ほどの高さの巨大な波となり、すべてを呑み、ひきさらってしまう。そういう気持だった。バスチアンは波に呑まれ、あえいだ。心がうずいた。大きくふくれあがった思慕をつつむには、バスチアンの胸はあまりにも小さかった。この大波に、まだ残っていた自分への記憶はすべてされてしまった。こうしてバスチアンは、覚えていた最後のもの、自分の名前を忘れた。

※ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」岩波書店1982, p558 より引用

 

 この絵は過去の自分の夢で、この夢の中の見知らぬ男は父親であり、父親への愛情のため自分の最後の記憶を忘れるというのは、エンデの無私の愛というものの表現であるように思われた。

 

 さて、採掘場を後にしたアトレーユは道化蛾という種族に襲われたところを、アトレーユと幸いの竜・フッフールに助けらる。

 

 再会を果たした三人は、ファンタジーエンの女王のお守りの力で金色に光るドームに入った。

 

 そこには、生命の泉を白と黒の巨大な二匹の蛇が守っていた。

 

 現実に帰る覚悟があることを伝えると、巨大な白い蛇がバスチアンが生命の泉へ通れる門を作った。

 

 バスチアンは泉に飛び込んだ。

 

 再生の瞬間である。

 

バスチアンは、ためらわずに水にとびこんだ。そして、水晶のように澄んだ水の中で、転げまわりはねまわり、水を吹きとばしはねかえして、きらきらととび散る水滴を口に受けて飲んだ。飲んで飲んで、渇きがすっかりおさまったとき、体中に悦びがみちあふれていた。生きる悦び、自分自身であることの悦び。自分がだれか、自分の世界がどこなのか、バスチアンには、今ふたたびわかった。新たな誕生だった。今は、あるがままの自分でありたいと思った。そう思えるのは、何よりすばらしいことだった。あらゆるあり方から一つを選ぶことができたとしても、バスチアンは、もうほかのものになりたいとは思わなかっただろう。今こそ、バスチアンにはわかった。世の中には悦びの形は何千何万とあるけれども、それはみな、結局のところたった一つ、愛することができるという悦びなのだと。愛することと悦び、この二つは一つ、同じものなのだ。

※ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」岩波書店1982, p572 より引用

 

 あるがままの自分でありたいと思うが故にあらゆるあり方から選ぶことはしない、というバスチアンの気持ちの描写によって、ここでやっと話の前半で判断禁止によって示された選択しないということと、意図禁止によって示されたあるがままが結び付けられる。

 

 そして、バスチアンがファンタジーエンを去ったら、ファンタジーエンではじめた物語をアトレーユが引き継ぐと約束すると、黒い蛇が現実へ帰れる門を作った。

 

 こうしてバスチアンは現実世界に帰ってきた。

 

 そこは、「はてしない物語」を読み始めた学校の物置だった。

 

 家に帰ると心配している父親が迎えてくれた。

 

 時刻は翌日の朝で、現実の時間は丸一日しか経っていなかった。

 

 バスチアンは自分が体験した出来事を数時間も父親に話した。

 

 長い長い話しが終わる頃、父親はバスチアンを固く固く抱きしめた。

 

 父親も変わっていた。

 

 翌日、バスチアンは盗んだ本をコレアンダー氏の古本屋に返しに行った。

 

 コレアンダー氏はバスチアンの話をきいて、こう語り始めた。

 

「まずたしかなことは、だ。きみはその本を、おれから盗んだんじゃない。なぜかといえば、その本はおれのものではない。きみのものでもない。ほかのだれかのものでもない。おれの考えがまちがっていなければ、その本は、それ自体、ファンタージェンからきたんだよ。今、この瞬間、だれかほかの人がその本を手にして、読んでいるかもしれないな。」

※ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」岩波書店1982, p586 より引用

 

 うんうん、自分の人生は自分だけのものだ。

 

 「それじゃ、おじさんはぼくの話を信じてくれるんですか?」 バスチアンはたずねた。
 「もちろんだ。」 コレアンダー氏は答えた。「もののわかった人間なら、だれだって信じるだろう。」
「正直いって、ぼく、信じてもらえるとは思っていませんでした。」バスチアンはいった。
※ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」岩波書店1982, p586 より引用

 

 うんうん、私もだよ。

 

 そして、バスチアンはコレアンダー氏にファンタジーエンに行ったことがあるのではないかと訊いた。

 

「もちろんいってきたよ。」コレアンダー氏はいった。

※ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」岩波書店1982, p587 より引用

 

 そうか、コレアンダー氏もいってたのか!

 

 そして、コレアンダー氏はこう話したのだった。

 

「ほんとうの物語は、みんなそれぞれはてしない物語なんだ。」コレアンダー氏は、壁にそって天井までぎっしり並んでいるたくさんの本を目で追った。それからパイプの柄でその方をさしながらことばをつづけた。
「ファンタージェンへの入口はいくらもあるんだよ、きみ。そういう魔法の本は、もっともっとある。それに気がつかない人が多いんだ。つまり、そういう本を手にして読む人しだいなんだ。」
「それじゃ、はてしない物語は、人によってちがうんですか?」
「そう思うんだよ、おれは。」コレアンダー氏は答えた。

※ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」岩波書店1982, p587 より引用

 

 これは人生そのものではないか!

 

 そう思うんだよ、私は。

 

 ほんとうの物語は、みんなそれぞれはてしない物語なんだ!

 

 だからこの作品は、「エンデ、人生について語る」という本の児童文学版だと思うんだよ、私は。

 

 

▼単行本

 

 単行本は2022年8月29日時点で3,146円。

 

 なかなか素晴らしい内容ではあるが、児童書としてはなかなかのお値段でもある。

 

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